2015年8月21日金曜日

100年



 1915(大正4)年に豊中グラウンドで始まった全国中等学校野球大会は、1917(大正6)年から鳴尾球場に移転、鳴尾球場は鳴尾競馬場の中にありました。野球界では夏の大会を競馬場の中で行ったことを「負の歴史」と考えているようですが、競馬界では今も「鳴尾記念」が行われています。今では高校野球といえば「甲子園」が常識ですが、甲子園球場で全国中等学校野球大会が行われるのは1924(大正13)年からのこととなります。


 100年目の2015年、第97回大会は当ブログの予想がハズレて東海大相模が優勝して幕を閉じました。当ブログの間違いは、小笠原の先発がそもそもの始まりで、育英が先制すれば後がない相模が焦って育英有利と見ていたのですがあっさりと相模が先制。佐藤世那は連投の疲れからか初回から球が上ずり、打たれた3本のヒットはストレート、スライダー、フォークが高めに抜けた甘い球でした。これでどの球を主体に行けば分からなくなり前半失点を重ねます。中盤からスライダーが決まるようになってようやくフォークも効果的となり、同点に追い付いた場面では期待が膨らみましたが、吉田との継投で温存されてきた小笠原とは最後にスタミナの差が出てホームランを打たれました。1点で抑えておけばまだ分からなかったのですが、限界だったようです。退路を断って背水の陣を敷き小笠原と心中した東海大相模・門馬監督の戦略勝ちでした。


 100年目なら101回大会のハズですが97回大会となった理由は1942年~1945年は戦争の影響で中止されたからです。97回大会でありながら今年の東海大相模は述べ95校目の優勝校となります。1918(大正7)年の第4回大会は「米騒動」のため中止、1941(昭和16)年の第27回大会は一部では地区予選だけ行われましたが「戦局の深刻化」のため本大会は中止されました。この2大会は通算回数にはカウントされていますが野球はやっていません。逆に、1942(昭和17)年には「文部省、学徒体育振興会」主催の「全国中等学校体育大会野球大会」が甲子園球場で行われて徳島商業が優勝しましたが、この大会は通算回数にカウントされておらず「幻の甲子園」と呼ばれています。


 終戦翌日の昭和20年8月16日、佐伯達夫が朝日新聞大阪本社を訪ね、「全国中等学校野球大会」の復活を訴えました。佐伯と共に朝日新聞の芥田武夫が全国を駆け巡り「全国中等学校野球連盟支部」の結成を説いて回り、不可能と言われた「全国大会」は1946(昭和21)年の夏に西宮球場で復活しました(「野球雲」第5号、拙著参照)。以来、中止の危機に陥ることなく今日の隆盛につながっています。


 

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