9月22日 (火) 甲子園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
1 0 0 0 0 0 0 0 0 1 名古屋 26勝46敗4分 0.361 石丸進一 西沢道夫
1 0 0 2 0 0 0 0 X 3 阪急 38勝35敗3分 0.521 天保義夫 森弘太郎
勝利投手 天保義夫 4勝4敗
敗戦投手 石丸進一 11勝13敗
セーブ 森弘太郎 5
二塁打 (名)古川
勝利打点 なし
森弘太郎好リリーフ
名古屋は初回、先頭の石丸藤吉は左飛、続く岩本章もレフトにフライを打ち上げるが山下好一が落球する間に打者走者の岩本は二塁に達し、本田親喜がレフト線にタイムリーを放って1点を先制する。
阪急は1回裏、先頭の西村正夫がストレートの四球で出塁、フランク山田伝も四球を選んで無死一二塁、上田藤夫が一塁線に送りバントを決めて一死二三塁、黒田健吾の遊ゴロで三走西村がホームを狙うが、ショート木村進一からのバックホームにタッチアウト、二走山田は動けず二死一二塁、続く森田定雄がレフト線に同点タイムリーを放って1-1と追い付く。
阪急は4回、中村栄、天保義夫が連続四球を選んで無死一二塁、トップに返り西村の投前送りバントはピッチャー石丸進一が好フィールディングを見せて二走中村を三塁に刺し一死一二塁、続く山田の一ゴロをファースト本田がエラーする間に二走天保が一気にホームに還り2-1と勝越し、一死一三塁から上田は浅い左飛に倒れて二死一三塁、黒田の三ゴロをサード芳賀直一が一塁に悪送球する間に三走西村が還り3-1とする。
名古屋は5回途中から先発の石丸進一に代わって西沢道夫がマウンドに上がる。
名古屋は7回、先頭の古川清蔵が左中間に二塁打、小鶴誠は四球を選んで無死一二塁、木村は三振、西沢の遊ゴロで小鶴が二封されて二死一三塁、芳賀が四球を選んで二死満塁、阪急ベンチはここで先発の天保から森弘太郎にスイッチ、石丸藤吉は投ゴロに倒れてスリーアウトチェンジ。
リリーフの森弘太郎は2回3分の1を1安打1四球無三振無失点に抑えて今季5セーブ目をマーク、4個で並んでいた神田武夫を抑えて現在セーブ王。
名古屋リリーフの西沢道夫も4イニングを無安打無四球1三振無失点に抑える好投を見せた。
阪急の一番ライト西村正夫については、「野球界」昭和17年10月1日号に「(8月の=筆者注)東西対抗の第一戦に出場して応召」という記事が見られるが、9月の試合には出場している。ネットで調べてみると、「Sponichi Annex」の「日めくりプロ野球10年2月 」の「2月5日」の記事に、「西村自身も召集令状が来たが、本人曰く『背が低いから現地で“お前はいらん”とはじかれてね。お陰で命拾い。ずっと野球ができた』」と書かれている。昭和17年の頃は日本はまだ本気で勝つ気だったようで、体の小さい西村は軍隊に行ったが追い返されたようである。小さいと言っても野球選手ならの話で、一般人に混ざれば追い返されるほど小さかったとは思えませんが。これが昭和も19年頃であれば、誰でも彼でも戦場に送り込まれていたでしょう。
西村正夫は、関大時代の試合中に、右鎖骨を骨折しており、それも即日帰郷を受けた理由の一つでしょう。大戦末期の昭和20年5月には、通信兵として召集されています。
返信削除昭和14年には山下実も腰部疾患のため即日帰郷となっています。
返信削除昭和17年9月の大量応召は同年6月のミッドウェー海戦の敗北によるものでしょう。国民には知らされていませんでしたが、連戦連勝を続けていた日本軍は捲土重来を期してまだ勝つ気十分だったことから頑強な兵士を選択していたようです。あと2年も経つと、猫の手も借りたくなります。