西鉄ライオンズで活躍した西村貞朗氏の訃報が伝えられています。
「幻の大リーガー」と言えば、金田が誘われた、中西が誘われた、長嶋が誘われたなどと伝わっていますが、西村貞朗が最も現実味を帯びた「幻の大リーガー」でした。
昭和28年、日米野球で来日したロパット・オールスターズを率いるエド・ロパットは、西鉄のルーキー西村貞朗を気に入り、何と西村は全米軍に参加して日米野球に出場することとなりました。ロパットに球の握りを教えてもらっているシーンや、ロビン・ロバーツとのツーショット写真などが残されています。
そして昭和28年11月1日の西宮球場、対全パ・リーグ戦で全米軍の投手としてボブ・レモンをリリーフして登板、11月3日の後楽園球場でもロビン・ロバーツの二番手として全パ軍相手に登板しました。2試合に登板して6イニングを投げて2安打4四球6三振1失点、防御率1.50の記録が残っています。
因みに、10月28日に全パ軍で登板した時は1回3分の1を1安打4四球1三振3失点、防御率16.20でしたが、エド・ロパットはこの投球を見て西村貞朗の素質を見抜いたのです。ルーキーシーズンのこの年は2勝9敗でしたが、その素質はロパットの見立て通り早くも翌29年に花開き、22勝8完封を記録して西鉄ライオンズの初優勝に貢献しました。西鉄二度目の優勝となった昭和31年には、ルーキーの稲尾と共に21勝をマークしています。
西村貞朗の論評として、最も間近で見ていたと考えられる川崎徳次の著書「戦争と野球」(表紙の写真は上述の日米野球で来日したロビン・ロバーツと並んでいる写真が使われています)から引用させていただきましょう。「西村は速球と、当時でいうドロップ、打者はその球がくることがわかっていながら打てなかったようだ。・・・西村はアメリカ・チームに入れられてわれわれ日本チームと対戦したことがあった。アメリカの打者たちは、西村のドロップを見て、『これは打てん』と判断し、わざと自分たちの中に入れてしまったのではないかと思う。このときの西村の球はそれほどすごかった。」
*西村貞朗の直筆サインカード。BBM社「No-Hitters」より。西村貞朗は昭和33年7月19日の東映戦で完全試合を達成しています。
ロパットは、西村を「シンデレラボーイ」と呼んでいたそうです。
返信削除完全試合を達成した時は、肩を痛めていて、もう往時の力は残っていませんでした。ゲンをかついで、最後までアンダーシャツを交換しなかったそうです(試合終了時の写真を見る限り汗ビッショリ)。相手投手の東映ビル西田にとっても忘れられない一戦だそうです。
ちなみに、荒巻淳も米大リーグが関心を示しましたが、そのチームはビル・ヴェックのセントルイス・ブラウンズでしたから、単なる話題集めだったのかもしれません。
昭和28年10月23日の日米野球第一戦で毎日がロパット軍を破り、「単独チーム」として初めての日米野球勝利となりました。その毎日が、昭和28年の春に来日したハワイ・オールスターズには岡山と後楽園で連敗したとのことで、この「昭和28年春に来日したハワイ・オールスターズ」の日本での戦績について調べている人がいます。
返信削除「ハワイ・オールスターズ」の投手の一人がチャーリー・ルイスで、翌昭和29年に毎日入りしていますね。レギュラー捕手であった土井垣が東映に移籍した年です。
昭和28年春の「ハワイ・オールスターズ」の日本での戦績について分かることがありましたらご教示お願いします。
広瀬謙三『日本の野球史』に、次のようにあります。
削除・・・・・・三月五日来日、プロ、ノンプロ、学生チームと試合し十四勝十一敗二分の成績であった。チームはレッドソックスに二三補強したものである。
(監督)国久(マネージャー)田崎(コーチ)主田(投)カスパラヴィッチ、ドゥール、下田、上原、平野(捕)ルイス、カウルクイ(一)宮本、上島(二)渡辺弟(三)与儀(遊)猫本、後藤(左)正木(中)渡辺兄(右)比嘉・・・・・・
日本のプロ野球でプレーした選手は、投手のレン・カスパラヴィッチ(近鉄S28~29)、ジム・ドゥール(高橋S29)、捕手のチャーリー・ルイス(毎日S29~30)、三塁の与儀真介(阪神S28~29大映S32)がいます。
もう少し探してみますので、何か見つけたら、またご連絡いたします。
ありがとうございます。さすがですね。
削除私ももう少し調べてみます。