4月20日 (日) 甲子園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 阪神 5勝6敗 0.455 若林忠志
0 3 0 0 1 0 0 1 X 5 巨人 8勝1敗 0.889 須田博
勝利投手 須田博 5勝0敗
敗戦投手 若林忠志 2勝3敗
二塁打 (神)堀尾
三塁打 (巨)平山2
勝利打点 平山菊二 3
平山菊二、攻守に奮闘
巨人は2回、一死後千葉茂がショートに内野安打、吉原正喜が四球を選んで一死一二塁、平山菊二が右中間に三塁打を放って2点を先制、呉波の左前タイムリーで3-0と試合の主導権を握る。
巨人は5回、二死後川上哲治が四球を選ぶと二盗に成功、千葉が右前にタイムリーを放って4-0と中押す。
巨人は8回、一死後平山が右中間にこの日2本目の三塁打、呉の左犠飛で5-0とダメ押す。
巨人は先制、中押し、ダメ押しと効果的な攻撃で阪神を撃破、平山菊二が4打数2安打2得点2打点三塁打2本、呉波が3打数2安打2打点の活躍を見せた。
須田博は若林忠志との投げ合いに投げ勝ち、2安打2四球4三振で今季2度目の完封、開幕以来無傷の5連勝を飾る。
翌日の読売新聞によると「守っても8回森の難邪飛球を好捕した平山の働きは激賞してよい。」とのこと。平山が「塀際の魔術師」と呼ばれるのは戦後のことですが、この頃から塀際のプレーに長けていたことが窺われる記述です。なお、このプレーについてはスコアカードには「好捕」と記述されていないので「ファインプレー賞」は授与されません。これまで「ファインプレー賞」は25個授与されてきましたが、後楽園球場で24個、西宮球場で1個となっています。スコアカードに記載される「好捕」や「好守」等は記録員が判断すると考えられますが、関東の試合は広瀬謙三公式記録員が判定していると考えられるところ、関西の試合では委託先の新聞記者が判定しているものと考えられることから、両者の目線が合っていない可能性があります。
*須田博は2安打完封で無傷の5勝目をあげる。
*森国五郎の第三打席、読売新聞によると左邪飛をレフト平山菊二が「好捕」したとのことであるが、スコアカードには「好捕」の記載は認められていない。
関西方面は治村宗三(この人は戦後も関西の公式記録員)という人だったような・・・。いや、読売の三宅正夫が委託でやっていたかも・・・。戦前か戦後の雑誌でそういった記事を見たと思うのですが、いずれもおぼろげな記憶なもので・・・(汗)。
返信削除初年度(1936)の公式記録員については以前こちらで書かせて頂きましたが、共同通信の秋山慶幸、秋山与四三(のち如水)、読売の小島六郎、宇野庄治が連盟からの委託という事で公式記録員を務めていました。ただ、広瀬謙三や山内以九士がいつ頃から公式記録員となったかは、まだわからないです。
http://eiji1917.blog62.fc2.com/
昭和11年6月25日発行「聯盟公報」第三号に「7月1日からの選手権大会の公式記録員は左のとおり委嘱しました。 同盟通信社 秋山慶幸 秋山興志己 読売新聞社 宇野庄治 小島六郎」と書かれています。
削除昭和12年3月25日発行「聯盟ニュース」第十三号に「公式記録員の決定」として「聯盟公式記録員に 広瀬謙三(元時事新報記者)」と書かれており、昭和12年3月の理事会で広瀬謙三が公式記録員に任命されたようです。
昭和12年7月18日付け読売新聞の記事によると昭和12年春の最高殊勲選手選考委員に「広瀬公式記録員」が名前を連ねています。
昭和17年のスコアブックから関西の試合では山内以九士がスコアカードにサインを残しています。私が見ているスコアブックは戦後清書されたものと考えられますが、清書版は山内以九士が書いた可能性が高く、実際に自分でスコアを付けたゲームには清書版にもサインを残したのではないかと思います。