5月19日 (金) 甲子園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 3 0 0 0 0 3 阪急 18勝8敗 0.692 荒木政公 石田光彦
0 1 0 0 0 0 0 0 0 1 金鯱 6勝21敗 0.222 古谷倉之助 中山正嘉
勝利投手 石田光彦 5勝1敗
敗戦投手 古谷倉之助 1勝5敗
二塁打 (金)野村、古谷2、瀬井、五味
日比野武、決勝タイムリー
4月11日以来勝星から見放されて十四連敗中の金鯱は岡田源三郎監督が先発マスクを被り八番で登場。一方、阪急はレギュラー定着を狙うルーキー日比野武がマスクを被り八番で先発出場。
金鯱は2回、先頭の古谷倉之助が左翼線に二塁打、一死後瀬井清が右翼線にタイムリー二塁打を放って1点を先制、岡田源三郎監督も左前打で続いて一死一三塁、しかし山本次郎の投ゴロは「1-6-3」のゲッツーとなってスリーアウトチェンジ。
阪急は5回、先頭の黒田健吾が右前打で出塁、伊東甚吉の投前送りバントは強すぎてピッチャー古谷が二塁ベースカバーのショート瀬井に送球しタイミングはアウトであったが瀬井が落球、岡田源三郎監督のパスボールで無死二三塁、ここで日比野がセンター右に逆転の2点タイムリーを放って2-1とする。更に石田光彦が四球を選んで無死一二塁、トップに返り西村正夫の投ゴロは「1-6-3」と渡ってダブルプレーとなり二死三塁、フランク山田伝が四球から二盗、浅野勝三郎四球で二死満塁、ここで古谷がワイルドピッチを犯して3-1とする。
4回途中からリリーフに出た石田光彦は5回3分の2を1安打3四球1三振の無失点で切り抜けて5勝目をあげる。
金鯱は初回に野村高義が右中間に二塁打、2回は上記のとおり2本の二塁打で1点をあげ、3回は五味芳夫が左中間に二塁打、4回は古谷が左中間に2本目の二塁打を放って阪急先発の荒木政公をマウンドから引きずり降ろすなど、7安打うち5本の二塁打を放ちながらシングルヒット3本の阪急に敗れて十五連敗を喫す。
殊勲の決勝タイムリーを放ったルーキー日比野武は東邦商業時代から強肩強打で鳴らした逸材。このところ石井武夫と交互に使われているがそろそろレギュラー獲りを狙っているか。日比野は中京商業から東邦商業に転校しているようです。中京商業三連覇時のショート杉浦清の著書にも練習が厳しく競争が激しい中京商業から他校に転向していく選手がいたことに触れている。大ベテランの岡田源三郎監督の前で新人ながら臆せず殊勲打を放った。1920年4月生まれなのでこの時19歳。一方、1896年3月生まれの岡田源三郎監督はこの時43歳。日比野は昭和34年までこの後20年に渡って現役を続けることとなる。
日比野は後年西鉄ライオンズに移り黄金時代のキャッチャーとして活躍し、昭和29年の西鉄初優勝の時の日本シリーズでは首位打者となっている。最晩年の昭和33年には和田博美にレギュラーの座を奪われていたが、三連敗から四連勝したこの年の日本シリーズでは重要な役割を果たすこととなる。
三原脩著「勝つ 戦いにおける“ツキ”と“ヨミ”の研究」では、「要(かなめ)にはツキ男を」の章で「老練な捕手・日比野に賭ける」と題してこの時のことが詳述されている。第三戦までは、肩の衰えた日比野に代えて昭和32年にレギュラーに抜擢した和田を使って三連敗した三原は、第四戦にキャッチャーを日比野に代えた。同著には「まったく、不思議という他はない。日比野にかえたとたん、ゲームの展開、投手のピッチングまで、ガラリとかわったのである。・・・大きな変化(ツキの到来)がチームにおこり始めたのだ。和田という捕手はたしかに優秀な選手だった。しかし、この(昭和)33年の日本シリーズに関する限り、日比野のキャリアとツキには及ばなかった。」と書かれている。私がこのエピソードを知ったのは中学時代に読んだ同著によるものです。三原の著書の中では最高傑作ではないかと思います。
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