5月23日 (火) 甲子園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 0 2 0 0 2 名古屋 9勝18敗3分 0.333 繁里栄 中村三郎
0 0 1 1 0 2 0 0 X 4 阪急 21勝8敗 0.724 重松通雄
勝利投手 重松通雄 2勝5敗
敗戦投手 繁里栄 2勝7敗
二塁打 (阪)田中、伊東
田中、伊東の滝川コンビが連続二塁打
阪急は3回、一死後重松通雄が四球で出塁、西村正夫の遊ゴロでランナーが入れ替わり、フランク山田伝の中前打で二死一二塁、黒田健吾が左翼線に先制のタイムリーを放って1-0とする。
阪急は4回、一死後田中幸雄が四球から二盗に成功、伊東甚吉が右前打を放ち一死一三塁、日比野武の中犠飛で2-0とする。
名古屋は5回から先発の繁里栄に代えて中村三郎がマウンドに上がる。
阪急は6回、先頭の山下好一が四球で出塁、森弘太郎の投ゴロの間に山下が二進、田中が左翼線にタイムリー二塁打を放って3-0、伊東がバック・ツー・バックの左中間二塁打を放って4-0とする。
名古屋は7回、先頭の桝嘉一が左前打で出塁、大沢清、加藤正二野の連続右前打で無死満塁、芳賀直一が押出し四球を選んで1-4、服部受弘は三振に倒れて一死満塁、中村が右犠飛を打ち上げて2-4としてなお二死一三塁、芳賀が二盗を決めて二死二三塁、しかし三浦敏一が右飛に倒れてスリーアウトチェンジ。名古屋の反撃もここまで、阪急が首位の座を守る。
重松通雄は5安打1四球6三振の完投で2勝目をあげる。
田中幸雄、伊東甚吉の滝川中学出身のルーキーコンビが2安打ずつを記録。6回の連続二塁打で勝負を決めた。開幕前の予想ではセカンドは上田藤夫、ショーにトは強肩を買われてコンバートされた下村豊が有力視されていたが、シーズンが深まるにつれて田中、伊東の二遊間コンビが定着してきた。大和球士著「真説 日本野球史」では「地味で人気は上がらなかったが、滝川時代からの名コンビはいよいよ冴え、絶妙のダブルプレーを随所に見せ・・・」と紹介されている。
伊東甚吉はプロには三年間の在籍で戦死することとなる。田中幸雄は滝川中学時代は「幸男」だったようで、昭和14年3月11日の読売新聞では「職業団入りの新人33名」が発表されているが「田中幸男」となっている。「真説 日本野球史」の昭和14年の記述でも「田中幸男」となっているが、昭和14年の登録名は「田中幸雄」であり、昭和15年以降「田中幸男」に戻し、戦後になって昭和25年の広島カープス結成時には「田中成豪」と改名している。
1975年の広島V1を記念して刊行された「広島東洋カープ球団史」によると、昭和24年9月28日、日本野球連盟に加盟を申請した時は「カープ」であったが、他チームが複数形を使っていることから「カープ」も「カープス」に改められた。実際、昭和24年12月29日付け中国新聞には「“カープス”中央リーグ入り」の大見出しが躍っている。ところが、広島大学教授や学生などから「鯉」の複数形は「カープ」で「S」はつかないと文法上の誤りを指摘する投書があり、「広島カープス」から「広島カープ」に改名している。
なお、「広島東洋カープ球団史」の昭和25年選手紹介欄には「田中成豪 関大」と関西大学出身となっている。恐らく、戦時中のプロ野球選手がよくやっていたように関西大学の夜間に籍を置いて兵役免除を受けていたのであろうが、きちんと授業にも出て卒業したのかもしれない。田中も昭和17年から兵役につきます。
更になお、ベースボール・マガジン社編「日本プロ野球50年史」の昭和25年選手紹介欄では「田中成秀 関大」となっているが「田中成豪」のことである。
更に更になお、毎度のことでコメントする値打ちも無いが、Wikipediaには「関西大学を経て、1939年阪急へ入団」と記載されているが誤りである。当時の資料では全て「滝川中学出身」となっています。戦後の資料が「関大出身」となっているのは上記の経緯であったからではないかと推測します。Wikipediaに「関西大学を経て」と書かれているのは戦後の資料だけを見て勝手に思い込んだ人が書き込んだからでしょう。
*重松通雄の下手投げが冴えて完投勝利。
*田中幸雄、伊東甚吉が連続二塁打。
0 件のコメント:
コメントを投稿