2013年2月23日土曜日

満州リーグ エトセトラ ⑧



 満州日日新聞に記事を掲載している“満州リーグ審判員”吉田要は満州日日新聞の記者でもあります。1月1日付けブログ「賀正」に「商売人と言われた職業野球」様から「満州日日新聞社にいた吉田要記者(元法大投手・戦後大洋ホエールズ助監督)」とのコメントを頂戴するまで、筆者は「吉田要」の存在を知りませんでした。


 昭和15年8月21日付け満州日日新聞に、満州リーグにおける長距離移動について吉田要記者による記事が掲載されています。「これでは選手が可哀相である。主催者側の一人であり、同時に満州では聯盟側の立場にもある自分としては言いにくいことながら来年からはスケジュールは余程慎重に考慮しなければなるまい。」


 「主催者側の一人」というのは主催の満州日日新聞の記者としての立場であり、「聯盟側の立場」というのは審判員としての立場のことを言っています。満州リーグでは3都市に分かれて試合を行っているので聯盟所属の審判員である二出川延明、島秀之助、金政卯一、杉村正一郎、横沢三郎、川久保喜一、倉信雄だけでは人員が足りず、満州側から吉田要と片岡氏が審判団に加わっています。因みに池田豊は渡満していないようで満州リーグの審判に名前は見られません。


 法政大学野球部のホームページに掲載されている「野球部史」の年表を見ると昭和5年に「鈴木茂・吉田要両投手復学出場」と書かれています。8月21日付け満州日日新聞に掲載されている吉田要記者による「印象深き投手と打者」に若林忠志について「何年かの学生生活を共にした若林のことを語り過ぎることは我田引水に似ていささか面映ゆい気持であるが」と書かれています。若林が法政大学野球部に入部したのは昭和4年のことなので、吉田要記者が法政大学の投手であったことは間違いないようです。


 吉田要は、8月21日付け満州日日新聞の記事に「かつて自分が渡米した当時、ボストンのブッシュウィック・ホテルでセントルイス・ブラウンの監督だったバッキー・ハリス二塁手(後のワシントン・セネタースの名監督)と打撃に就いて語り合ったことがあった。」とも書いています。この「バッキー・ハリス」は日本にやってきたバッキー・ハリスではありせん。名古屋とイーグルスに在籍したバッキー・ハリスは本名はアンドルー・ハリスで、名古屋時代の新聞記事には「アンドルー・ハリス」と書かれています。本人がワシントン・セネタースの名二塁手にして名監督だった「バッキー・ハリス」を名乗ることを希望したため、イーグルス時代から「バッキー・ハリス」となりました。


 吉田要は昭和26年の大洋ホエールズ助監督の時は資料によると44歳となっていますので、昭和15年は33歳、昭和5年は23歳となります。若くして渡米してバッキー・ハリスと打撃論を語り合い、法政大学の投手から満州に渡って満州日日新聞の記者となり、満州リーグでは審判も務め、戦後は大洋の助監督の他、いくつかの野球関連書も著している国際派の野球人です。








*昭和15年7月31日、第一試合の三塁塁審は片岡審判員、第二試合の三塁塁審は吉田要審判員が助っ人として初登場した。この後も数試合塁審を務めている。
















*1953年、3回目のワシントン・セネタース監督時代のバッキー・ハリスのサイン。寄せ書きの左上です。














 

2 件のコメント:

  1. 27年法大に入学した吉田要(伊丹中)は同期の鈴木茂(横浜貿易 のち全横浜)と共に野球部の救世主となりました。
    法大は東京六大学以前のリーグ戦、つまり四大学、五大学の頃から万年最下位という弱小チーム。
    それが、一年生の吉田・鈴木両投手の活躍で、秋のリーグ戦では初めてBクラスのトップ(4位)になりました。
    一躍、早慶両校を脅かすダークホースになりましたが、翌28年に吉田・鈴木は応召されてしまいました。中学の時に軍事教練をとっていなかったので、大学生の徴兵延期の適用を受けられなかったのです。
    主力投手を2人も失った法大の投手陣には、"あれがボールか 秋の空"の円城寺満(大連商 のちセ審判)しかおらず、28年は春秋のリーグ戦ともに最下位に終わりました。
    この投手不足がハワイにいた若林忠志の獲得につながります。
    30年吉田・鈴木は復学して、悲願の初優勝に貢献しました。

    満州リーグ戦臨時審判員の片岡勝は、阪急軍のマネージャーとして同行していたのでしょう。片岡は日本運動協会(のち宝塚運動協会)に在籍していた事で知られていますが、村上実と共に戦前の阪急軍を支えた陰の功労者でした。

    http://eiji1917.blog62.fc2.com/

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    1. 貴重な情報重ね重ねありがとうございます。

      片岡勝は佐藤光房が「もうひとつのプロ野球」を書いた当時、日本運動協会時代の唯一の生き証人でした。阪急のマネージャーであれば満州側から審判団に加わったのではないですね。

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