当ブログでは現在絶好調の松本貞一の活躍をお伝えしているところです。
松本貞一は今季限りでプロ野球から去る。おそらく応召でしょう。木下姓となって戦後は愛知産業に所属し、昭和28年に中日に入ってプロ野球の世界に復帰する。愛知産業は昭和21年の戦後復活第1回から27年まで7年連続で都市対抗に出場している。毎日新聞社発行「都市対抗野球大会60年史」に掲載されているテーブルスコアには昭和21年のメンバーに「木下」の名が認められる。本文解説では「・・・全桐生が・・・八幡製鉄も倒し、さらに木下卓三投手の名古屋市・愛知産業を降して・・・」と書かれている。
「木下」姓の選手は21年がセンターとピッチャー、22年の四番センター「樹下」は「木下」の誤植の可能性があります。23年も四番センターで出場しています。24年は代打で1打数1安打、25年は三番セカンドで登場します。25年の三番セカンド「木下」は木下家に養子に入って「木下貞一」となった「松本貞一」ではないでしょうか。
27年のメンバーには同姓の「木下育」捕手がいて「木下貞」二塁手は四番を打っています。「木下育」捕手は昭和26年に名古屋ドラゴンズ、29年に大映スターズに所属する「木下育彦」捕手のことで、27年は愛知産業で都市対抗に出場しました。「木下貞一」は昭和28年に中日入りしてプロ野球の世界に11年ぶりに復帰するので、27年の愛知産業の「木下貞」二塁手は「木下貞一」と見て間違いないでしょう。
「都市対抗野球大会60年史」に書かれている「木下卓三」が「木下貞一」の誤植であれば松本貞一は「木下貞一」として7年連続都市対抗に出場していたこととなります。「野球人国記」というサイトに愛知産業に所属した主な選手が掲載されており、「木下貞一」と「木下育彦」の名は見られますが「木下卓三」の名は見られませんので、可能性はゼロとは言えないかもしれませんがちょっと考え過ぎでしょうか。
野球史における「卓三」と言えば南海で活躍した上田卓三となります。上田卓三は三池工業時代に夏の甲子園決勝で、木樽と阿天坊を擁して優勝候補と言われた銚子商業を降して優勝投手となりました。この時の三池工業の監督が今年逝去された原辰徳監督の父、原貢監督であったことはご存知の方も多いと思います。Wikipediaによると真弓明信は原貢と同じ社宅に住んでおり、小学校6年生の時に見た三池工業の優勝パレードに感激して野球の道に進んだとのことです。原辰徳と筆者は同年代なので、この時原辰徳少年は小学校1年生だったはずです。
松本貞一ですが、木下家に養子縁組する際の条件として、プロ野球を廃業させられたそうです。夏季戦が終った頃には退団していたかもしれません。
返信削除愛知産業時代は、昭和28年に名古屋に揃って入団した大西寛介ともにノンプロ球界のスラッガーでした。
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11年経ってプロに復帰したのも、野球に対する思いを断ち切ることができなかったからでしょう。その決断が、中日初優勝のメンバーに名を連ねることができた要因ともなりました。西鉄との日本シリーズでも第6戦に代打で登場していますね。
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