2014年12月27日土曜日

沢村二世




 神田武夫は澤村栄治の後輩となることから「沢村二世」と呼ばれることがありますが、神田が京都商業在学当時「沢村二世」と呼ばれた好投手は高崎商業の古島誠治でした。古島は立教大学に進学して戦死することとなります。野球殿堂博物で見ることのできる「戦没野球人モニュメント」には高崎商業-立教大学 古島誠治の名前が刻まれています。「野球界」昭和16年3月号に「沢村二世と言われる高崎商業の古島は阪神入団」の記事が認められますが、阪神には行かずに立教大学に進みました。


 高崎市のホームページに「市政情報」が掲載されており、そこから「市の概要」→「歴史・文化」→「たかさき100年」に入っていくと平成10年8月1日号に掲載された第42回「高商、甲子園準決勝に進出」に辿り着きます。そこまでしなくても「高崎商業 古島誠二」でグーグル検索すれば簡単に見つかります。昭和13年に高崎商業が夏の甲子園でベスト4に進出した時のエースは金井茂雄でした。金井も沖縄戦で戦死したとのことです。古島はこの時三塁手、昭和15年はエースとしてチームを夏の甲子園に導き「沢村二世」と呼ばれる豪速球投手に成長していました。



 野球殿堂博物館のホームページに掲載されている「戦没野球人モニュメント」のページによると、「戦後六十年の節目を迎えるにあたり、先の大戦において戦死された中等学校野球・大学野球・社会人野球の選手の方々を慰霊するための「戦没野球人」モニュメントを制作しました。」とされています。プロ野球経験者は「鎮魂の碑」に祀られていますが、アマチュア球界の戦没者は無視されていたので2005年に製作されたものです。選考基準は

中等学校 ・・・・ 選抜大会、選手権大会出場者(本大会)
大学 ・・・・・・ リーグ戦出場者(東京六大学野球連盟、東都大学野球連盟、 旧関西六大学野球連盟、旧関西学生野球連盟)
社会人 ・・・・・ 都市対抗野球大会出場者(本大会)


とされていますが、選定された戦没選手の多くが大学出身者で占められていることからも推測されるように、実際の調査は大学のOB名簿に頼ったもののようで、大学に進学していない甲子園出場者の調査は杜撰なものであったことがうかがえます。昭和13年に高崎商業を甲子園ベスト4に導いた群馬県野球史に残る名投手「金井茂雄」の名前は「戦没野球人モニュメント」には刻まれていません。「古島誠治」は立教大学のOB名簿から判明したものであると推測されます。金井茂雄以外にも多数の「漏れ」が存在する可能性は否定できないでしょう。




 

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