2013年7月6日土曜日

15年 ライオンvs黒鷲 12回戦


11月10日 (日) 西宮

1 2 3 4 5 6 7 8 9  10 計
0 0 0 0 0 0 0 0 0   0  0 ライオン 23勝70敗4分 0.247 福士勇
0 0 0 0 0 0 0 0 0 1X  1 黒鷲      45勝45敗4分 0.500 長谷川重一 亀田忠

勝利投手 亀田忠 25勝20敗
敗戦投手 福士勇   7勝20敗

二塁打 (ラ)鬼頭(弟)

勝利打点 清家忠太郎 3


清家忠太郎サヨナラ打

 ライオンは2回、先頭の鬼頭数雄が中前打で出塁、灰山元章は三振に倒れて一死一塁、黒鷲ベンチはここで早くも先発の長谷川重一から亀田忠にスイッチ、亀田は鬼頭政一に四球、鬼頭(兄)が三盗を決めて前田諭治も連続四球で一死満塁とするが、伊勢川眞澄の三ゴロで鬼頭(兄)は本封、福士勇は三振に倒れる。

 ライオンは3回、先頭の坪内道則が四球で歩くと玉腰年男が送って一死二塁とするが後続なく、4回も一死後鬼頭(弟)が左翼線に二塁打を放って一死二塁とするがチャンスを生かせず無得点に終わる。

 亀田は徐々に調子を上げて5回~7回は三者凡退。8回は一死後坪内に四球を与えるが、坪内の二盗をキャチャー清家忠太郎が刺して玉腰も中飛に打ち取る。9回も一死後鬼頭(兄)に四球を与えるが、灰山を遊ゴロ併殺に打ち取る。

 一方、黒鷲は5回は一死満塁、6回は一死一二塁、7回は二死一二塁、8回は一死二三塁、9回も一死二塁とチャンスを作るが何れもあと1本が出ず無得点、0対0のまま延長戦に突入する。

 ライオンは10回表、二死後伊勢川が右前打を放つが福士は投ゴロに倒れる。

 黒鷲は10回裏、先頭の中河美芳が左前打を阪急安藤之制つと二盗に成功、亀田は右飛に倒れるが寺内一隆に代わる代打太田健一が四球を選んで一死一二塁、竹内功は左飛に倒れて二死二塁、ここで清家が中前にサヨナラタイムリーを放って黒鷲が接戦を制す。

 亀田忠は2回途中からのロングリリーフとなり8回3分の2を投げて2安打5四球5三振無失点で25勝目をあげる。

 ライオン先発の福士勇は9回3分の2を投げて8安打7四球3三振でサヨナラ負けを喫し20敗目を記録する。


 サヨナラヒットを放った清家忠太郎は戦前は昭和16年を最後にプロ野球を去る。おそらく応召でしょう。戦争の時代を生き抜き、昭和21年の都市対抗野球に川崎いすゞの六番キャッチャーとして出場し、1回戦の全神戸戦で3打数1安打、本塁打1本を記録しています。このホームランが戦後の復活都市対抗野球初の本塁打でした。この試合に天皇陛下が来ていれば史上初の天覧本塁打は小田野柏ではなく清家忠太郎となっていた訳です。翌22年にはプロ野球に復帰し、22年東急、23年急映、25年大洋で活躍して引退することとなる。因みに昭和21年の都市対抗野球には準優勝した全桐生のショートとして皆川定之も出場しています。昭和23年には清家と皆川は急映でチームメイトとなります。

 川崎いすゞの監督は苅田久徳でした。苅田久徳著「天才内野手の誕生」によると、「旧翼、大和から小松原博喜、片山栄次、高橋吉雄、清家忠太郎、それに大沢紀三男などが参加する」とのことです。








     *清家忠太郎がサヨナラタイムリーを放った黒鷲打線。















*昭和21年都市対抗野球1回戦全神戸vs川崎いすゞ戦。清家忠太郎は六番キャッチャーとして3打数1安打を記録した。ホームランを打っています。都市対抗野球大会60年史より画像を拝借しました。

 一番バッターは苅田久徳、四番ファーストはサム高橋吉雄です。



















 

6 件のコメント:

  1. 補足させてもらいますと、
    川崎いすゞの九番・遊撃手は戦争末期に巨人軍に在籍していた今泉勝義、全神戸の一、二番コンビは共に法大出の鳥丸楠男(浪商)、滝野通則(のちプロ野球審判員)、三番の永田三郎(早大)は美男の外野手で人気があった、六番・村井竹之助は早大出の強打者で1934(昭和9)年の全日本軍の一員、八番・青池良正は近鉄パールズの結成に参加して先日亡くなった完全試合男・武智文雄(旧姓:田中)とバッテリーを組んだ事もありました。

    戦後間もない頃の都市対抗は元プロや東京六大学の大物たちがまだまだ元気でしたね。

    http://eiji1917.blog62.fc2.com/

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    1. この辺の経歴を理解せずにでたらめなキャリアを書いているサイトが多々見られる中で、貴サイト「商売人と言われた職業野球」様の調査能力の高さには敬服します。

      原データを確認する、疑問があれば複数のソースで確認する作業を怠っているスポーツマスコミ、サイトには猛省をお願いしたい。

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  2. いつも拝見させて頂いております。
    片山栄次投手と一言多十投手についての特徴や球種などを詳しく調べております。
    当時の新聞を見てもあまり載っておらず、
    苦戦しています。
    何か手がかりは御座いませんか?
    申し訳御座いません。

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    1. コメントありがとうございます。
      当時の資料は限られているため、スコアカードに残された記録から想像するぐらいしかできません。
      昭和16年頃までの新聞記事には投球内容などが書かれていますが、片山栄次が活躍した昭和18年の記事には試合内容すら書かれていません。戦後のいすゞ自動車まで苅田と行動を共にしたということは、苅田も認める好投手であったと思います。

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    2. 一言多十についてはこの年創刊された「日刊スポーツ」の記事が参考になるかもしれません。(私が持っているのは昭和21年7月8日以降。野球殿堂博物館にも保存されていません。試合内容が記事として掲載されているのは関東の試合だけ。)
      7月28日「対中部7回戦」:「中部猛者連中もこの日は一言投手の高低の球に手を出し徒(いたず)らに凡打して・・・」
      8月17日「対タ軍10回戦」:「8回まで猛然と打ち気におそいかかるタ倶の打線たくみに散発せしめて3点にとめたのは偉かった。」(当時のダイナマイト打線はチーム打率3割)
      10月11日「対グ軍13回戦」:「1回グ俱は一言投手がスピードを加減して投じた球をよく狙い・・・」

      サンプル数は少ないですが、戦後の一言は低めの変化球を中心に組み立てる技巧派だったようです。俊足好打の野手として活躍していた時期です。全盛期の戦前学生時代は速球投手だったかもしれませんが。

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    3. 一言多十は昭和21年4月29日に与四球13個で完投勝利を飾っています。
      この試合では八番の松尾幸造(先発の林貞明を1回途中でリリーフしてそのまま八番に入る)と九番の鈴木秀雄に3個ずつ四球を与えていますが、四番小鶴誠は無安打2三振で与四球ゼロ、五番服部受弘も無安打1四球で与四球ゼロと、中軸は抑えています。

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