7月1日 (月) 甲子園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 1 0 0 0 0 0 0 0 1 ジャイアンツ 31勝15敗 0.674 スタルヒン
0 0 0 1 0 0 0 2 X 3 金鯱 13勝30敗4分 0.302 内藤幸三 中山正嘉
勝利投手 中山正嘉 6勝15敗
敗戦投手 スタルヒン 17勝7敗
勝利打点 濃人渉 2
濃人渉決勝タイムリー
ジャイアンツは2回、先頭の中島治康が二遊間に内野安打、吉原正喜の二ゴロの間に中島は二進、千葉茂は中飛に倒れるが、鈴木田登満留が中前にタイムリーを放って1点を先制する。
金鯱は4回、先頭の佐々木常助がセンター右にヒット、濃人渉が送って、古谷倉之助の二ゴロの間に佐々木は三進、森田実が左前に同点タイムリーを放って1-1とする。
金鯱先発の内藤幸三は5回まで4安打5四球2三振で1失点、金鯱ベンチは6回から内藤を下げて中山正嘉をマウンドに送る。
金鯱は8回、先頭の漆原進が四球を選んで出塁、トップに返り五味芳夫は三前にバントヒット、佐々木も四球を選んで無死満塁、ここで濃人がセンター右に決勝の2点タイムリーを放って3-1とする。
中山正嘉は4イニングを2安打4四球4三振無失点で切り抜け6勝目をあげる。
両軍6本のシングルヒットのゲームを制したのは最下位金鯱であった。金鯱はライオンを抜いて最下位を脱出し、南海と並ぶ同率七位に浮上した。
決勝打を放った濃人渉は昭和11年の金鯱結成に参加し、12年春を最後に応召、爆傷を負ったがプロ野球に復帰してきた。因みに濃人に関するWikipediaの記述はほぼ永田陽一著「ベースボールの社会史 ジミー堀尾と日米野球」の丸写しです。
濃人は日本生まれですが父親がハワイ移民で日米の二重国籍を持っていました。昭和14、15年頃に日本国籍を選択しています。父親はカウアイ島で「カウアイ日本人野球リーグ」生みの親だったようです。「ハワイのカウアイ島」と聞いて「カウアイキング」を連想できれば相当の競馬通です。カウアイキングはネイティブダンサーの産駒で1966年のケンタッキーダービー、プリークネスステークスを制したアメリカ二冠馬です。カウアイキングの牝駒ハワイアンドーンは1977年、78年のスプリンターズステークスを連覇したメイワキミコと1980年の皐月賞を制したハワイアンイメージの母親です。一族にハワイに関する馬名が多いのは「カウアイキング」が「カウアイ島の王様」だからでしょう。
濃人渉は戦後指導者として成功し、1970年ロッテ監督時代にパ・リーグを制覇します。成田が25勝、MVPの木樽が21勝、16勝の小山との三本柱に八木沢、まだ若き村田兆治を擁する強力投手陣、有藤(25本)、アルトマン(30本)、ロペス(21本)、池辺(22本)、山崎(25本)と5人が20本塁打を記録し、更に江藤慎一(11本:シーズン途中参加です)、榎本(15本)を擁する強力打線でした。V9時代の巨人を倒すとしたらこの年のロッテしかないと思われましたが、日本シリーズでは堀内がアルトマンンを5打席連続敬遠するという卑劣極まりない手に出て巨人がV6を達成しました。全盛期の巨人でもこのような手を使わなければ勝てなかった程の強力チームでした。
*濃人渉が決勝打を放ち、首位ジャイアンツを破って最下位を脱出した金鯱打線。
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