9月22日 (金) 甲子園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
2 1 1 0 0 0 0 1 0 5 タイガース 49勝22敗2分 0.690 木下勇 青木正一 若林忠志
0 3 0 1 0 0 0 0 0 4 ライオン 24勝46敗5分 0.343 菊矢吉男 福士勇
勝利投手 若林忠志 18勝4敗
敗戦投手 福士勇 9勝15敗
二塁打 (ラ)菊矢、坪内
本塁打 (タ)堀尾 5号
伊賀上良平、先制タイムリー
タイガースは初回、先頭の松木謙治郎が四球を選んで出塁、ジミー堀尾文人の二ゴロをセカンド西端利郎がファンブルして無死一二塁、門前真佐人の三ゴロの間に二者進塁して一死二三塁、景浦将は三振に倒れるが伊賀上良平が中前に弾き返して二者を迎え入れ2点を先制する。
タイガースは2回、先頭の岡田宗芳が四球で出塁して二盗に成功、一死後松木の二ゴロで岡田は三進、堀尾の二遊間内野安打で3-0とする。
ライオンは2回裏、先頭の岡本利之が四球を選んで出塁、西端の二ゴロでランナーが入れ替わり、鈴木秀雄の二ゴロで再度ランナーが入れ替わって二死一塁、松岡甲二が四球を選んで二死一二塁、菊矢吉男の右中間二塁打で二者を迎え入れて2-3、トップに返り坪内道則の左中間二塁打で3-3の同点に追い付く。タイガースベンチはここで先発の木下勇をあきらめて二番手に青木正一をマウンドに送り、青木が玉腰年男を三振に仕留めてスリーアウトチェンジ。
タイガースは3回、先頭の景浦が四球で出塁、伊賀上の三前送りバントをサード鈴木が一塁に大暴投する間に一走景浦は一気にホームを駆け抜けて4-3とする。更に富松信彦四球、皆川定之死球で無死満塁、ライオンベンチは先発の菊矢から二番手福士勇にスイッチ、福士は岡田を浅い左飛、青木を三振、松木を右飛に抑えてスリーアウトチェンジ。
ライオンは4回、先頭の西端の一ゴロをファースト松木がエラー、鈴木は三振に倒れるが松岡が四球を選んで一死一二塁、福士の投ゴロで西端が三封されて二死一二塁、トップに返り坪内が四球を選んで二死満塁、玉腰が右前に同点タイムリーを放って4-4とする。タイガースベンチはここで三番手に若林忠志を投入、水谷則一は遊飛に倒れてスリーアウトチェンジ。
ライオン二番手の福士勇は久々に好投を見せてタイガース打線を無得点に抑えていたがタイガースは8回、二死後ジミー堀尾が中越えに打球を飛ばし一気にホームインしてランニングホームランとなり5-4と勝ち越す。翌日の読売新聞によると「中遊間の中継が悪く」とのことであるがエラーは記録されておらず、堀尾の第5号ホームランとなった。
若林忠志は5回3分の1を投げて4安打2四球2三振無失点で逃げ切り18勝目をあげる。
ライオン1回の攻撃でタイガース外野陣が2つの補殺を記録した。先頭の坪内道則が左前打で出塁して玉腰中飛で一死一塁、水谷則一の中前打で一走坪内は三塁に向かうがセンタージミー堀尾文人からの三塁送球にタッチアウト。更に二死一塁で鬼頭数雄が右前安打、一走水谷は二塁ベースを蹴って三塁に向かうがライト景浦将からの三塁送球にタッチアウトとなった。
景浦将の強肩ぶりは伝説となっている。昭和11年、12年はピッチャーとしても活躍しており、昭和11年は澤村栄治の防御率1.05を抑えて0.79で初代防御率一位ににも輝き、昭和12年春も二代目防御率一位の澤村0.81に次いで0.93で第二位となっている。
ジミー堀尾文人については、永田陽一著「ベースボールと社会史 ジミー堀尾と日米野球」によると、昭和9年に全日本チームが編成されることをアメリカで知った堀尾が来日した際、三宅大輔(巨人軍初代監督、阪急監督時も堀尾を採用した)が入団テストを行い「テストで見せた堀尾の強肩、快足は魅力的だった。」としている。三宅は堀尾を「日本内地では一寸得難い選手」と判断している。
センター・堀尾、ライト・景浦の肩に匹敵するコンビは日本野球史上、赤ヘル時代のセンター・山本浩二、ライト・ライトルだけでしょう。
*昭和9年全日本時の三宅大輔のサイン。
*昭和10年第1回アメリカ遠征時のジミー堀尾文人のサイン。
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