9月19日 (火) 甲子園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 2 0 0 0 0 0 2 0 4 金鯱 27勝44敗2分 0.380 内藤幸三 鈴木鶴雄 大宮清
5 0 0 0 0 1 0 0 X 6 ジャイアンツ 50勝18敗2分 0.735 楠安夫 中尾輝三 スタルヒン
勝利投手 楠安夫 5勝1敗
敗戦投手 鈴木鶴雄 2勝3敗
セーブ スタルヒン 4
二塁打 (ジ)平山2、吉原
三塁打 (金)瀬井
スタルヒン、単独セーブ王に躍り出る
金鯱先発の内藤幸三は立ち上がりストライクが入らず先頭の白石敏男にストレートの四球、二番水原茂もノースリーとしたところでマウンドを降りて二番手に鈴木鶴雄がマウンドに上る。戦場から戻ってきたばかりでまだ体調は整っていないようだ。水原は中飛に倒れるが千葉茂が左前打を放ち白石が三塁に進んで一死一三塁、千葉が二盗を決めてワイルドピッチで白石が還って1点を先制、中島治康四球で一死一三塁、川上哲治の中犠飛で2-0、アチラノ・リベラ(アデラーノ・リベラ)が左前打を放ち二死一二塁、平山菊二が左中間に走者一掃の二塁打を放って4-0、吉原正喜が左翼線にタイムリー二塁打を放って5-0とする。
金鯱は2回、先頭の瀬井清が中越えに三塁打、鈴木に代わる代打大宮清は四球、長島進に代わる代打中村輝夫も四球を選んで無死満塁、佐々木常助の投ゴロは「1-2-3」と渡ってダブルプレー、トップに返り五味芳夫が左前に2点タイムリーを放って2-5とする。
ジャイアンツは3回から先発の楠安夫に代えて中尾輝三をマウンドに送る。
金鯱二番手の大宮清は素晴らしいピッチングを見せて2回~5回を川上の左前打1本に抑えて無失点。
ジャイアンツは7回、一死後吉原が四球を選んで出塁、中尾の投ゴロの間に吉原は二進、白石の二ゴロをセカンド五味がエラー、これを見た吉原は三塁からホームに向かい白球(一試合6球の球数制限がありますので既に薄汚れていたでしょう)を拾った五味がバックホームするがこれが悪送球となるダブルエラーの間に吉原が生還して6-2とする。
ジャイアンツ二番手の中尾も3回から6回まで無安打ピッチング、7回に大宮に初ヒットを中前に運ばれるがここまで無失点。しかし8回に突如として悪癖が顔を出す。
金鯱は8回、先頭の五味が四球を選んで出塁、濃人渉も四球を選んで無死一二塁、野村高義は三振に倒れるが小林利蔵に代わる代打古谷倉之助も四球を選んで一死満塁、秋季シリーズ現在首位打者の小林茂太が押出し四球を選んで3-6、ジャイアンツベンチはここで急遽スタルヒンをマウンドに送る。瀬井に代わる代打山本次郎の遊ゴロの間に濃人が還って4-6、大宮は投ゴロに倒れてスリーアウトチェンジ。
スタルヒンは9回、圧巻のピッチングを見せて先頭の中村から佐々木、五味と三者三振に斬って取り、当ブログルールによりセーブが記録される。スタルヒンはこれで31勝4セーブとなり最多勝の他に、中山正嘉と並んでいたセーブ王争いでも単独トップに躍り出た。
金鯱三番手の大宮清は7イニングを3安打5四球2三振1失点、自責点ゼロの好投を見せた。大宮清は一宮中学から中央大学を経て鉄道省に入省するが、エリートコースをかなぐり捨ててプロの道に進んだ生粋の野球人である。現役生活は昭和15年までで惜しくも戦死することとなる。一宮中学からはプロに進んだ人数は少ないが森弘太郎、林安夫と二人の30勝投手を輩出している。林安夫も戦死しており「鎮魂の碑」にその名が祀られている。大宮清の名前は「鎮魂の碑」には見られないが「戦没野球人モニュメント」にその名を見ることができる。
「鎮魂の碑」は戦没したプロ野球選手を慰霊するために昭和56年に建立され、当時は後楽園球場の側にあった野球体育博物館の入り口近くにありました。東京ドームができて野球体育博物館がドーム内部に移り、丸ノ内線後楽園駅の方に移設されています。「戦没野球人モニュメント」は戦没した中等学校野球・大学野球・社会人野球選手を慰霊するために2005年に作成されたもので、野球体育博物館内の野球殿堂ホールの入口手前にあります。大宮清の名前が「鎮魂の碑」ではなく「戦没野球人モニュメント」に刻まれている理由は分かりません。他にも甲陽中学から法政大学に進み昭和11年に阪急に在籍して1試合だけ出場して2打数無安打の記録を残している渡辺敏夫、浪華商業から昭和16年に黒鷲に入団して3年間で691打数160安打、打率2割3分2厘という当時としてはハイアベレージを残している木村孝平も「鎮魂の碑」ではなく「戦没野球人モニュメント」にその名が刻まれています。
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