2012年3月31日土曜日

14年 ジャイアンツvsイーグルス 10回戦


9月30日 (土) 後楽園


1 2 3 4 5 6 7 8 9  計
0 0 0 0 0 0 0 1 0  1 ジャイアンツ 55勝20敗2分 0.733 中尾輝三
0 0 0 0 0 0 0 0 0  0 イーグルス   21勝54敗1分 0.280 望月潤一


勝利投手 中尾輝三 10勝4敗
敗戦投手 望月潤一   4勝21敗


二塁打 (イ)寺内

白石の三盗、悪送球を誘う


 ジャイアンツは初回、先頭の白石敏男が四球で出塁、一死後千葉茂の二ゴロをセカンド高須清が一塁に悪送球して一死一三塁、中島治康は二飛に倒れて二死一三塁、ここでダブルスチールを仕掛けるが「2-6-2」と渡って三走白石はタッチアウト。

 ジャイアンツは2回、先頭の川上哲治が内野安打で出塁するがアチラノ・リベラ(アデラーノ・リベラ)の三ゴロが「5-4-3」と渡ってダブルプレー。3回は三者凡退。4回も先頭の千葉が四球で出塁するが中島の遊ゴロは「6-4-3」と渡ってダブルプレー。

 翌日の読売新聞によるとイーグルスの6回の守備は「水原の安打と見ゆる難ゴロを山田が二塁上に掬って一塁好投に刺す美技を見せ、更に中島の猛直球を木下が跳躍一番逆手に掴んで喰い止める」とのことでショート山田潔、サード木下政文のファインプレーを伝えている。

 ジャイアンツは8回、先頭の白石が四球を選んで出塁、水原は中飛に倒れて千葉の遊ゴロの間に白石は二進して二死二塁、ここで白石が三盗を試みるとキャッチャー伏見五郎の送球が悪送球となって白石が生還、1-0と均衡が破れる。

 中尾輝三は4安打6四球1三振、3度目の完封で10勝目をあげる。中尾の完封は何れもイーグルス戦のものである。


 イーグルス先発の望月潤一は9回を投げ抜いて2安打10四球2三振1失点、自責点はゼロのピッチングであった。翌日の読売新聞は「捕手の暴投一個に稀に見る望月の好投も報いられず1対0に惜くも試合を失った・・・望月はインドロップを鮮やかに使い分けて徹頭徹尾巨人軍の打力を封じた。」と伝えている。


 ジャイアンツの唯一の得点は白石敏男の三盗がキャチャーの悪送球を誘ったものです。昭和48年センバツ、準決勝で江川の作新学院と対戦した広島商業は1対1で迎えた8回、二走金光と一走楠原がダブルスチールを敢行、キャッチャー小倉の悪送球を誘って江川を倒しました。決勝では永川の横浜高校に敗れて準優勝でしたが夏の甲子園では決勝で静岡高校を倒して優勝します。江川も金光も楠原も静岡高校の植松も法政大学に進んで黄金時代を築くこととなります。

 三塁に悪送球した函館中学出身の伏見五郎は久慈次郎に誘われて昭和15年、函館太洋倶楽部に移ります。伏見五郎はその後戦死することとなるので「鎮魂の碑」にその名が刻まれています。伏見五郎の父親が函館太洋倶楽部中興の祖として知られる伏見勇蔵です。伏見勇蔵は郁文館中学時代から野球部で活躍しています。郁文館中学グラウンドの隣に夏目漱石が住んでおり、「吾輩は猫である」には郁文館(作品中では「落雲館」)中学野球部員が漱石宅に飛び込んだボールを捕りに忍び込む場面が描かれています。この野球部員こそが伏見勇蔵であったと伝えられています。

 ベーブ・ルースと対戦した昭和9年の全日本には函館太洋倶楽部(函館オーシャン)から久慈次郎、永澤富士雄、浅倉長の3人が参加しています。久慈捕手は全日本のキャプテンを務めて澤村栄治の教育係となります。当然巨人の初代主将となる予定でしたがこの年の函館大火により家業の再建を優先させて巨人入りを辞退することとなります。久慈は昭和14年8月19日、全道樺太実業団野球大会における札幌倶楽部との試合で四球に歩くが次の打者に指示を与えるために引き返した際、キャッチャーが二塁走者に牽制球を投げ、その球が久慈のこめかみを直撃して二日後に亡くなります。現在でも都市対抗野球に「久慈賞」としてその名を残しています。




                 *中尾輝三は3度目の完封で10勝目をあげる。








     *昭和9年全日本時の久慈次郎のサイン。「Cap」久慈次郎と書かれています。






*昭和9年全日本時の永澤富士雄のサイン。右隣は山本栄一郎、左隣は伊原徳栄と杉田屋守。







                  *昭和9年全日本時の浅倉長のサイン。


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