2014年1月26日日曜日

平凡な大投手、竹内愛一



 大正時代、早稲田大学で「平凡な大投手」と言われた竹内愛一のプロデビューをお伝えしました。2回3分の2を投げて75球、3安打6四球1死球2三振1暴投5失点、しかし自責点は1であったように、2つのエラーに足を引っ張られたものです。


 翌日の読売新聞は「かくて投手難の朝日は竹内監督自ら投手板に起ち老獪なピッチングで3、4回を食い止めたものの何としても年齢が承知せず・・・。結局竹内の投手は失敗であるがドロップの使い方の巧さ、走者牽制の妙味など若い投手の学ぶべき滋味は大いにOすべきものがあった。」と伝えている。「Oす」の部分は解読不能ですが文脈から「見習うべき」の意味でしょう。


 Wikipediaの記述だけでは竹内愛一を伝えるには余りにもお粗末なので、当ブログが真実をお伝えしましょう。


 竹内の球歴のピークは復活早慶戦で完封勝利を飾ったことで、この点はWikipediaの記述通りです。しかしその投球内容はほとんど知られていません。当時の現データとしては最も信頼できる改造社発行、庄野義信編著「六大学野球全集」(上巻)によると、大正14年(1925年)10月19日(月)、快晴の戸塚球場で19年ぶりに行われた早慶1回戦は早稲田が慶應を11対0で降します。この試合に先発して完封勝利を飾ったのが竹内愛一ですが、そのピッチング内容が凄い。


 投球数108球で、ストライクは71球(直球46、曲球25)、ボールは37球(直球28、曲球9)。28人の打者に対して1安打無四球9三振無失点。何と8回までパーフェクトピッチングで、9回先頭の七番・三谷八郎にアウドロをショート越えの左前打されて完全試合を逃しますが、本郷基幸に代わる代打野村榮一を二飛、濱井武雄を三振、トップに返り加藤喜作をカウントツーツーから見逃し三振に打ち取り1安打完封となりました。


 東京朝日新聞の竹内の談話は「・・・第一回戦に自分が抱いた野心は途中でノーヒット・ノーランという事を聞かされてこれを実現したいと云う事であった。最後になって三谷君にヒットを打たれたのは打たれまい打たれまいと、あまりに固くなったためであった。・・・今後慶應と戦うには今度のように決して楽観は出来ない。恐ろしいチームだと思っている。」


 橋戸頑鉄の論評は「竹内は別人の如き猛威を示した。慶應の打者が外角に弱いを知ってか、徹頭徹尾その弱点に投げ込みカーブも従来の如き大きく流れるもの許りでなく、曲折の凄い急角度のものを交え、殊にプレイトの真中から外角へと流れ出る一種の釣球で再度成功した。」


 飛田穂洲著「熱球三十年」には「平凡な大投手、竹内愛一」の章があり、「フォーク・ボール」の項によると竹内はフォーク・ボールを習得していたとのことです。大正11年にハーバート・ハンターと共に来日したヤンキースの投手ブッシュが投げていたフォーク・ボールを竹内が真似たとのことで、同著にはフォーク・ボールは「ヤンキースの投手で鉄砲玉といわれたブッシュの発明になるといわれ」と書かれており、Wikipediaでも「フォークボールは1919年頃バレット・ジョー・ブッシュが開発し」とされています。「肩や腕のためによくないというので、これをわずかしか試合に使わなかった」とのことで、その「わずか」が晴舞台である復活早慶戦だったのでしょう。


 橋戸頑鉄が言う「曲折の凄い急角度のもの」とはフォーク・ボールであったのは間違いないと考えられます。フォークボールの元祖は杉下茂ではなく、竹内愛一であった可能性が高い。即刻、竹内愛一の野球殿堂入りを決定するべきでしょう(笑)。


 最後に、何故竹内愛一がこの試合に登板したかを推理してみましょう。もちろん朝日投手陣の弱さが主要因ですが、南海の監督が三谷八郎で助監督が加藤喜作であったことが南海戦で登板した最大の要因であったと推測します。上記のとおり、大正14年の復活早慶戦で対戦した三谷と加藤の前で、「ワシはまだまだやれるで」というところを見せつけたかったのではないでしょうか。「熱球三十年」に書かれている竹内の性格からして、この推理はかなりの確率で当たっていると考えられますがいかがでしょうか(笑)。







     *竹内愛一のプロ野球での唯一の登板を伝える貴重なスコアカード。












 

4 件のコメント:

  1. シーズン前から早大の後輩である巨人の藤本定義監督と投げ合うんじゃないのかという話もあったそうですね。
    『1941(昭和16)年・野球界9月号』に大和球士が書いた竹内登板の戦評。
    「当然スタンドからは拍手が湧いた。当時の颯爽たる名投を記憶している人々は、如何にも千載一遇の好機に接し得たと喜んだ事であろう。ネット裏の右端には竹内投手と共に早大のマウンドを死守した往年の好投手大橋松雄氏が懐かしさに堪えられないと言った面持ちで見守っていた。(略)その間、場内の人気を独占した感があった。(略)失礼な申し分ではあるが、その投球は、現代に無声名映画を見る懐しさに変りない。如何に名画でも、今、無声映画を見たら必ず物足りない筈だ。何か間に抜けている筈だ。処が、竹内投手の投球は少しも間が抜けていなかった―とすれば、野球は大して進歩していないと考察出来るし、現在のプロ野球の強さを測量する事も出来る。」

    続いて早慶戦復活一回戦で審判を務めた明大勢による竹内投手評の抜粋。『1925(大正14)年・アサヒスポーツ11月号』より。
    岡田源三郎「慶軍のすべての打者は、殆ど打つ気のないような打撃ぶりで、自分で自分の墓穴を掘りつつあるかの観があった。二回以後の竹内の投球は、些のおそれげもなく、思うままに投球したとしかいえぬ。竹内としては決して一球一球と、考えて投げた試合とはいえない」
    二出川延明「直球にさしたる威力もなく、また曲球にさほどのブレーキもきいてはいなかった。当日の竹内の一本調子の投球に対して、慶軍の各打者が共通に、ボックスの後方に位置していたことは、たしかにあの打撃不振を招いた最大原因であると私は断定したい。藤本投手のような極度にインシュートしたり、或はやや浮き気味になる球に対しては、奏功すると思うが、竹内投手の球に対しては、まさに失敗であったと思う」
    湯浅禎夫(※球審)「前半はよくプレートの真中を通す直球を投げていたが、慶軍打者が打ち後れていたために事なく、後半に至ってはよく整球して八回まであのレコードを保ちながら三谷に対して直球でツー・ストライクスを取った後、真中へはいるカーブをテキサスされてしまったのは、いかにも惜しかった」

    国民野球連盟解散後の竹内の動向ははっきりしませんが、1950(昭和25)年に南海ホークスの春季キャンプに臨時投手コーチとして招聘されています。

    http://eiji1917.blog62.fc2.com/

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    1. 京都の呉服屋の若旦那ですから食うには困らなかったでしょう。
      藤本定義は復活早慶戦第二戦で完投勝利を飾っていますね。

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    2. 確認していませんが、仏具屋の跡取り息子ではなかったですかね。酒で飲み潰してしまった、なんて話がありますが。
      大正時代、早大が軽井沢で摂政宮、賀陽宮ら皇族を招待して台覧練習をおこないましたが、その時に北白川宮が安部磯雄の専用席に座ったため、竹内が大声で怒鳴りつけたという話も残っています。飛田穂州も竹内には手を焼いたことでしょう。

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    3. すみません、仏具商山崎屋でした。

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