10月29日 (火) 甲子園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 金鯱 25勝55敗7分 0.313 古谷倉之助 中山正嘉
0 0 0 1 0 1 1 3 X 6 南海 24勝61敗6分 0.282 清水秀雄 川崎徳次 政野岩夫
勝利投手 政野岩夫 9勝20敗
敗戦投手 中山正嘉 13勝26敗
二塁打 (南)清水、吉川、政野
勝利打点 上田良夫 2
上田良夫猛打賞
3回まで両チーム無安打のまま試合は中盤戦に突入する。
金鯱は4回、一死後森田実が中前にヒットを放って出塁、黒澤俊夫の一塁内野安打で一死一三塁、上野義秋の遊ゴロの間に森田が還って1点を先制する。
南海は4回裏、一死後吉川義次が四球で出塁、清水秀雄の二ゴロでランナーが入れ替わり、上田良夫が左前打を放って二死一二塁、前田貞行が左翼線に同点タイムリーを放って1-1とする。
南海は6回、一死後吉川が左翼線にヒット、清水が右中間に二塁打を放って一死二三塁、上田が左前にタイムリーを放って2-1とする。
南海は7回、二死後木村勉が四球を選んで出塁、岩本義行が中前打、吉川が左中間に二塁打を放って3-1とする。
南海は8回、先頭の上田が本日3本目のヒットを右前に放って出塁、前田が左前打で続いて無死一二塁、政野岩夫が右中間に走者一掃の二塁打を放って5-1、トップに返り国久松一は三ゴロに倒れ、岩出清が死球を受けて一死一二塁、木村の遊ゴロで岩出が二封されて二死一三塁、岩本が中前にタイムリーを放って6-1として試合を決める。
上田良夫が4打数3安打1得点1打点の活躍で勝利打点を記録した。上田良夫は兄の上田藤夫(阪急)に比べて日本での実績に乏しくWikipediaにも紹介されていない。上田良夫に関しては永田陽一著「ベースボールの社会史 ジミー堀尾と日米野球」が最も詳しく紹介しています。「1937年マウイ代表チームがカランバ製糖チームの招待でフィリピン遠征した帰りに神戸に立ち寄り、阪急の兄藤夫に『日本で腕試ししたい』とプロ入りの希望を打ち明け、新設されたばかりの南海に雇われた。・・・戦後は朝鮮戦争に従軍し、福岡の芦屋基地に駐屯していたことがある。」上田良夫は今季限りでハワイに帰ることとなる。兄の上田藤夫は今季オフに日本女性と結婚して日本に残り、戦後は名審判として活躍することとなる。
この試合のターニングポイントは6回表の金鯱の攻撃にあった。この回の頭から南海は先発の清水秀雄に代えて川崎徳次を投入する。しかし川崎は先頭の室脇正信に四球を与え、森田は捕邪飛に打ち取るが黒澤に四球、上野は一飛に打ち取るが中山正嘉にも四球を与えて二死満塁、南海ベンチはここで川崎をあきらめて政野岩夫を投入、政野は松元三彦を遊ゴロに打ち取りピンチを切り抜ける。政野は3回3分の1を投げて1安打2四球1三振無失点に抑えて9勝目をあげ、打っても試合を決める2点タイムリー二塁打を放った。
政野の2点タイムリーは7回まで3対1でリードして8回に放ったもので試合を決定付けるものとなり、自ら6点目のホームも踏んだ。こんな時に私事で恐縮ですが、昭和50年7月28日、高校2年の夏の神奈川軟式決勝、7回まで3対1でリードして迎えた8回、三番・四番が無死二三塁のチャンスを作って筆者に打順が回ってきました。ここで中前に試合を決定付ける2点タイムリー、更に6点目のホームを踏んで6対1で勝ち神奈川を制しました。神奈川軟式では神奈川新聞に写真入りで報じられるのは決勝戦だけで、筆者の2点中前タイムリーで先輩二人が還ってくるシーンが掲載されました。
*昭和50年7月28日、夏の神奈川軟式決勝、3対1でリードして迎えた8回無死二三塁で筆者が中前に2点タイムリーを放った瞬間。神奈川新聞社のご厚意によりいただいた報道用写真。(平和球場)
*その後6点目のホームを踏む。
*この試合を報じた神奈川新聞。6対1で勝ちました。
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