10月13日 (日) 後楽園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 0 1 0 0 1 黒鷲 41勝41敗4分 0.500 亀田忠
2 0 0 0 0 0 0 0 X 2 南海 23勝59敗6分 0.280 清水秀雄
勝利投手 清水秀雄 11勝21敗
敗戦投手 亀田忠 22勝18敗
二塁打 (黒)木下
三塁打 (南)清水
勝利打点 清水秀雄 7
ワンマンショー
南海は初回、先頭の国久松一が四球を選んで出塁、岩出清の投ゴロでランナーが入れ替わり、岩本義行は二飛に倒れて二死一塁、ここで清水秀雄が左中間奥深く三塁打を放ち1点を先制、亀田忠のワイルドピッチで清水が還り2-0とする。
黒鷲は1回表、先頭の岡田福吉が中前打で出塁するが、岩垣二郎の遊ゴロは「6B-3」と渡ってダブルプレー、ショート加藤喜作の好プレーで清水は波に乗り、初回の先制三塁打で更に調子をあげていくこととなる。
黒鷲打線は清水の前に沈黙して2回から6回まで無安打。6回は岡田、岩垣が連続四球を選び玉腰忠義が送りバントを決めて一死二三塁、亀田は三ゴロに倒れて二死二三塁、ここで清水は渾身のピッチングを見せて中河美芳を三球三振に打ち取る。
黒鷲は7回、先頭の寺内一隆が三塁に内野安打、木下政文が右空間にタイムリー二塁打を放って1点を返し1-2とする。
黒鷲は9回、一死後寺内が四球で出塁、木下の三ゴロでランナーが入れ替わり、清家忠太郎に代わる代打長谷川重一の三塁内野安打で二死一二塁とするが宗宮房之助に代わる代打サム高橋吉雄が三振に倒れて試合終了を告げるサイレンが高々と鳴り響く。
清水秀雄は4安打6四球7三振の完投で11勝目をあげる。打っても決勝の三塁打を放つワンマンショーであった。
2日連続で勝利打点の清水は、これで今季7個目の勝利打点を記録した。「勝利打点」は1981年から88年まで公式記録となり「最多勝利打点」は表彰の対象ともなりましが、必ずしも勝負強さの指標とはならないことから公式記録及び表彰対象から外されました。しかしこの8年間の「勝利打点王」には落合、ブーマー、バースと3人の三冠王が名前を連ねているほかにも、怪人ソレイタ、西武初優勝の立役者スティーブ・オンティベロス、2年連続の原、勝負強いと言われて数字で証明した古屋、若かりし頃の清原など、表彰対象としての価値は高かったと考えられます。
勝利打点を調べるには公開されている数字をネットで検索するだけでは不可能であり、スコアカードを一枚ずつめくっていく以外に調べようがありません。したがって、投手のシーズン最多勝利打点記録を調べるのは極めて困難であると考えられますが、清水秀雄の可能性は十分あるのではないでしょうか。但し、今季の清水の7個の勝利打点には、ファーストで出場した試合が3個、ライトで出場した試合が1個含まれていますので、投手として出場して勝利打点&勝利投手を記録したのは3試合だけとなります。これは清水が優秀な「二刀流」であった証左でもあります。後に当ブログにも登場することとなる別所が更新する可能性があると考えられます。昭和14年にはスタルヒンが投手として4つのサヨナラ打を記録していますので、この年スタルヒンが勝利投手&勝利打点を4個以上記録していることは確定しています。昭和14年の記録はいつの日にか調べ直します。
*清水秀雄は4安打完投で11勝目をあげる。
*上が「野球界」昭和13年1月号に掲載されている明治大学時代、全盛期の清水秀雄。下は戦後昭和24年頃の中日時代のブロマイド。清水は今季限りで応召し、生き延びて戦後プロに復帰しますが体型は変わってしまいます。体型は変わっても、フォロースルーの型は変わりません。
*清水秀雄が二試合連続、今季7個目の勝利打点を記録した南海打線。
*1985年パ・リーグ勝利打点王に輝いた古屋英夫。こちらはカルビーではなく79年山勝なので少しサイズが小さい。これだけ保存状態の良いものは貴重です。木更津中央高校時代は剛球投手としても鳴らしました。1973年に日米親善高校野球でハワイ選抜チームと対戦した千葉県選抜チームでは四番ライトでスタメン出場してクローザーも務めています。この時の三番は習志野高校の掛布でした。当時の千葉県高校野球関係者の間では、古屋の評価の方が掛布より高かったことの証左となります。因みにこの試合の先発投手だった小見川高校の黒須清志投手は、千葉県高校野球史上鈴木孝政に次ぐピッチャーです(当ブログ評価)。
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