リーグ戦は中休みに入り、昭和15年10月17日から「読売新聞社主催第4回日本野球優勝大会」というトーナメント大会が後楽園球場で開催されます。
第一日は10時からの開会式に引き続き、1回戦のライオンvs南海戦は2A対1でライオンの勝ち。鬼頭数雄が4打数2安打、玉腰年男が2打数2安打でした。2回戦第一試合の阪急vs金鯱戦は2対0で金鯱、第二試合の阪神vs黒鷲戦は3対1で黒鷲が勝って波乱の幕開けとなった。金鯱は黒澤俊夫が4打数2安打、黒鷲は中河美芳が4打数2安打と主軸打者の活躍が目立った。
18日の第二日、2回戦第一試合は巨人が2対0とリードしながら8回に名古屋が3点を入れて逆転、しかし9回裏、満塁のチャンスに吉原正喜が逆転サヨナラ2点タイムリーを放って巨人が打っ棄る。第二試合はライオンが翼を6対0で破った。鬼頭数雄が右翼スタンドに大ホームランを放っている。セネタースはこの試合から「翼」を名乗ることとなった。
19日の準決勝第一試合はライオンが5対1で黒鷲を破った。鬼頭数雄が又もツーランホームランを放った。第二試合は巨人が金鯱を5対0で破った。吉原正喜が満塁走者一掃の三塁打を含む4打数2安打3打点と連日の活躍を見せた。
20日の第一試合は三位決定戦、延長10回黒鷲が金鯱に5A対4でサヨナラ勝ちした。4対4の同点のまま迎えた10回裏、岡田福吉、岩垣二郎の早稲田コンビが連打、早稲田実業出身の太田健一が送って中河美芳がサヨナラ打を放った。中河は4打数3安打2打点の活躍を見せた。決勝戦のライオンvs巨人戦は3対3で引分け、明日に順延された。鬼頭数雄が4打数2安打、川上哲治も4打数2安打を記録している。
21日の再試合は巨人が13安打の猛攻を見せて5対1でライオンを破って優勝、連日殊勲打を放った吉原正喜が最優秀選手賞を獲得し、川上哲治が打撃賞に輝いた。
なお、早く負けた阪神、阪急、南海、名古屋、翼は休ませてもらえる訳ではなく、桐生と太田(共に群馬県)でオープン戦(帯同試合)を行っています。桐生は野球どころとして知られており、現在当ブログで活躍している皆川定之や柳鶴震は桐生中学の出身です。戦後も東映フライヤーズで活躍した「三塁打王」毒島章一、「元慶應義塾大学野球部監督」相場勤を輩出しています。小暮、阿久沢を擁して甲子園で活躍した桐生高校を覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。筆者が以前勤務していた会社で前橋支店に赴任していた頃は、国道50号線で前橋から桐生や太田に営業に行っていました。
この時オープン戦が行われた桐生新川球場は、野球史に大きな役割を果たしています。終戦直後の昭和20年11月、日本プロ野球は東西対抗で復活の狼煙を上げました。11月23日、ステート・サイド・パーク(神宮球場、進駐軍に接収されていました)で第一戦が行われ、翌24日、桐生新川球場で第二戦が行われたのです。群馬県では中島飛行機があった太田や高崎、前橋は空襲の被害に遭いましたが桐生は空襲がありませんでした。
この時の東西対抗で使用されたボールなどの用具は西宮球場に保管されていたものです。これをどうやって関東に運ぶかが喫緊の課題でした。終戦直後の東京-神戸間の列車は食料の買い出しですし詰め状態であり、殺気立っていた訳です。大和球士著「真説 日本野球史」によると、関西から関東に用具を運ぶ危険な役目を買って出たのは鈴木竜二と聯盟関西支部員・嘉治井安兵衛とのこと。「鈴木は座席に腰をおろしたが、嘉治井は、網棚にあげた命より大切な荷物をにらんで立ったまま。」午前3時、第三国人(原文のママ、現在では不適切な表現の可能性がありますがご了承ください)の親分らしき人物の荷物の総点検が行われた。・・・「コレハダレノダ」。鈴木は、恐怖のどん底にたたき落とされながらも、東西対抗戦決行の使命感に燃え、無謀にも思わず答えた。「オレノダ」。親分の太いステッキで顔面を一撃されるのを覚悟したが・・・親分は・・・次の席の点検に移動していった。・・・嘉治井が、もし荷物を奪われたら、親分の喉元を食い切りまじき、この世の人とも思われぬ凄まじい形相をしていたためであろうか・・・。
鈴木竜二は著書「鈴木竜二回顧録」に「ぼくが感心し、心を打たれたのは嘉治井君が一晩中一睡もしないで、資材から目を離さず、盗難から守ってくれたことであった。」と書いている。日本プロ野球が復活の狼煙を上げることとなった昭和20年東西対抗の最初の殊勲賞は、当ブログは嘉治井安兵衛に授与します。
リーグ戦は10月25日から再開されます。
*桐生高校から慶應に進んで神宮では3打席連続ホームランを放った「元慶應義塾大学野球部監督」相場勤の直筆サイン入りカード。
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