10月27日 (日) 鳴海
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 3 0 0 0 0 0 0 3 翼 45勝33敗10分 0.577 野口二郎
0 0 0 1 0 2 0 1 X 4 黒鷲 42勝42敗4分 0.500 長谷川重一
勝利投手 長谷川重一 12勝9敗
敗戦投手 野口二郎 28勝11敗
二塁打 (黒)長谷川
勝利打点 岡田福吉 4
黒鷲、勝率5割に戻す
翼に中村信一が還ってきました。12年秋季シーズン後兵役に就いていましたが、昭和15年10月6日付け読売新聞は「セ軍の中村(信)復帰」の見出しで「攻守快打を謳われた東京セネタース中村遊撃手はこの程帰還、5日同軍に復帰登録した。」と報じています。復帰初戦の本日は一番サードでの登場となりました。復帰報道時点ではまだチーム名はセネタースでしたが復帰時点では翼に変わっています。
翼は初回、先頭の中村信一がいきなり中前打を放って健在ぶりをアピール、高橋輝彦は三邪飛、野口二郎の投ゴロ併殺でこの回は無得点。
翼は3回、先頭の佐藤武夫が四球で出塁、横沢七郎の送りバントが野選を誘い無死一二塁、トップに返り中村もストレートの四球で無死満塁、高橋の三ゴロで三走佐藤は本封、野口が右前に2点タイムリーを放って三走横沢に続いて二走中村もホームを駆け抜け2-0、一走高橋も三塁に進み、小林茂太の中犠飛で3-0とする。
黒鷲は4回、先頭の中河美芳が右前打で出塁、長谷川重一の右中間二塁打で中河が還って1-3とする。
黒鷲は6回、先頭の長谷川の左飛をレフト西岡義晴がエラー、寺内一隆の当りは右前に飛ぶがライト山崎文一が二塁に送球して一走西岡はフォースアウト、ライトゴロが記録されて一死一塁、ここで木下政文が左翼スタンドにツーランホームランを放って3-3の同点に追い付く。
黒鷲は8回、一死後清家忠太郎が右前打で出塁、山田潔の三ゴロの間に清家は二進、トップに返り岡田福吉が左前に決勝タイムリーを放って逆転勝利を飾る。
長谷川重一は6安打5四球無三振の完投で12勝目をあげる。
戦地から帰還してきた中村信一は3打席2打数1安打1得点1四球を記録して、5回の守備から退いた。当然、まだ体力が恢復していないのでしょう。当ブログは戦前屈指のショート・ストップは中村信一であったと考えています。昭和11年にセカンド苅田久徳、サード高橋輝彦と組んだ「百万ドル内野」はあまりにも有名です。法政大学時代に名ショートと謳われた苅田久徳はプロではフランキー・フリッシュに触発されてセカンドに回ります。そこでキーストーン・コンビを組む相棒として目を付けたのが法政の後輩である中村信一でした。
苅田久徳の自伝「天才内野手の誕生」には百万ドル内野誕生までの道のりが書かれています。「二塁ベースに入ると、私は一球ごとに、遊撃手からのトスに注文をつけた。法政の後輩、中村信一が顔を真っ赤にして、遊撃のポジションを死守している。私が明け渡したショートストップ。それだけに、中村にかかる負担は大きかったろう。先輩としては、「シャープに動いてほしい」と思うし、中村自身が、何よりプレッシャーに押しつぶされそうな表情だった。『苅田の跡を汚してはならない』そんな気迫がいつも伝わってきた。・・・キーストーン・コンビの呼吸がぴったり、というのは、流れに停滞がなく、淀みなくスパッと決まること。・・・中村信-苅田、三塁高橋輝彦-苅田へのボールの転送は、何百回、何千回となく積み重ねられた。中村信も、高橋も、よくついてきた。」
*長谷川重一は6安打完投で12勝目をあげる。
最近、気になってることが有ります。中村信一は、苅田久徳が入団を勧めたから東京セネタースが獲得に動いたかのように取れる資料が有りますが、実際は中村信一選手の方が先に入団が決まっていたのではないか?ということです。既に中村信一は東京セネタースにいたと「プロ野球謎とロマン」では書かれてます。また、中村信一は昭和12年秋季シーズン途中に兵役なのかもしれません。10月28日の試合を最後に出てないので。
返信削除中村信一の入団の経緯はもう少し調べてみます。
削除中村の応召については、2010年10月26日付けブログ「12年秋 阪急vsセネタース 5回戦 」で「10月31日付け読売新聞は「セネタース遊撃手中村信一選手は応召を命ぜられ30日任地へ向かった。」と報じている。セネタースは百万ドル内野の要と核弾頭を失うこととなった。」とお伝えしているとおり、昭和12年10月28日の「ジャイアンツvsセネタース 4回戦」を最後に戦地に旅立っています。
読売新聞の古い記事を見れるCD-ROM,DVD-ROMを図書館で見つけて、中村信一選手の記事を見れました。また通って、いろいろ発掘したいです。中村信一選手は「プロ野球人名事典」には法政大学中退と書いてますが、普通に卒業したのでは?とも思ってます。
返信削除昭和11年2月21日付け読売新聞に「景浦、立教を退学」の見出しで、景浦将が立教大学を中退してタイガース入りする記事が掲載されています。この記事の中で「東京セネタース軍入りした中村、綿貫、高橋、山崎同様中途退学して職業団の傘下に馳せ参じたものである」と書かれています。この「中村」が「中村信一」の可能性が高い。昭和11年のセネタースには熊本工業出身の「中村民雄」も在籍していますが、昭和11年3月11日付け読売新聞に掲載されている「メンバー表」にはまだ「中村民雄」の名前は見られず「中村信一」は掲載されています。
削除したがって、中村信一は法政大学を、綿貫惣司は立教大学を、高橋輝彦は専修大学を、山崎文一は日本大学を、それぞれ中退してセネータース入りしたものと考えられます。