2013年5月8日水曜日

15年 金鯱vs巨人 11回戦


10月12日 (土) 西宮

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 2 0 0 0 2 0 0 4 金鯱 23勝53敗7分 0.303 内藤幸三
0 1 0 1 0 0 0 0 0 2 巨人 61勝25敗 0.709 中尾輝三

勝利投手 内藤幸三  3勝8敗
敗戦投手 中尾輝三 20勝10敗

二塁打 (金)漆原

勝利打点 黒澤俊夫 2


内藤幸三、快心のピッチング

 巨人は2回、一死後白石敏男が三塁に内野安打、白石が二盗を決めて、キャッチャー飯塚達雄の悪送球で三進、吉原正喜は三振に倒れるが林清一が四球を選んで二死一三塁、林が二盗に成功、飯塚の送球が又も悪送球となって三走白石が生還、1点を先制する。

 金鯱は3回、一死後室脇正信が左前打から二盗に成功、キャッチャー吉原正喜の悪送球で室脇は三進、濃人渉は三振に倒れるが黒澤俊夫が四球を選んで二死一三塁、森田実が中前にタイムリーを放って1-1の同点、上野義秋が右前にタイムリーで続いて2-1と逆転する。

 巨人は4回、一死後白石が四球で出塁、白石の二盗の際、飯塚が三度二塁に悪送球して白石は三進、吉原が四球を選んで一死一三塁、パスボールで白石が還って2-2の同点とする。

 金鯱は7回、先頭の室脇が四球を選んで出塁、濃人の三前バントが内野安打となって無死一二塁、室脇がディレードスチールを試みるが「2-6-5」と渡ってタッチアウト、この間に一走濃人は二進、黒澤が左前にタイムリーを放って3-2と勝ち越し、森田は二ゴロに倒れるが、上野が右前に貴重な追撃タイムリーを放って4-2と突き放す。

 内藤幸三は5回以降巨人打線を無安打に抑え、結局許したヒットは白石の内野安打1本という快投を見せ、1安打7四球1死球8三振2失点、自責点ゼロの完投で3勝目をあげる。かつてのジャイアンツキラー振りを発揮した。


 貴重な2打点を叩き出した上野義秋は福岡工業の出身、戦前のプロ野球での出場は昭和15年だけとなるが、10年後の昭和25年に西鉄クリッパースのメンバーに名を連ねており289打数70安打を記録する。空白の10年間の経歴の中ではっきりしているのは昭和23年、都市対抗野球に優勝した西日本鉄道の“不動の三番ファースト”(アルバート・プホルスと同じです)として出場していることです。昭和25年の二リーグ制の発足に伴い西日本鉄道はプロ野球に参入することとなって西鉄クリッパースとなり、西日本鉄道の主力選手は上野を始めとしてプロに転向しています。


 昭和16年4月3日付け読売新聞に掲載されている16年度のメンバー表には大洋軍の内野手背番号8(昭和15年は27)で名前を連ねていますが出場した記録はありません。応召の可能性もあるかもしれません。大洋は昭和18年に西日本鉄道に引き継がれ西鉄となります。上野の戦前の消息は不明なのでこの経緯で西日本鉄道野球部に在籍した可能性もありますが、兵役もあったでしょうから福岡工業出身の上野は地元ということで西日本鉄道野球部に参加したのでしょう。都市対抗野球60年史に掲載されている伴勇資のコメントによると西日本鉄道野球部は昭和22年に創部されたとのことなので昭和18年に大洋を西日本鉄道が引き継いだことと上野義秋の在籍は関係ないと考えられます。


 昭和26年に西鉄クリッパースは西日本パイレーツを吸収して西鉄ライオンズとなり、上野も初期のライオンズのメンバーとなりました。翌27年には広島に移籍し、この年限りで引退することとなります。波乱の人生を支えたのがそのバッティング技術であったことは容易に想像できます。その片鱗を見せたのが本日の試合だったのです。









      *内藤幸三は巨人打線を白石敏男の内野安打1本に押せる好投を見せる。













     *内藤幸三の前に1安打に抑えられた巨人打線。














     *上野義秋が2打点を記録した金鯱打線。









 

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