5月14日 (土) 鳴海
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 4 0 0 0 0 0 4 名古屋 1勝5敗 0.167 松尾幸造 繁里栄 木下博喜
0 1 3 0 1 0 0 0 X 5 金鯱 2勝5敗 0.286 中山正嘉
勝利投手 中山正嘉 1勝1敗
敗戦投手 松尾幸造 0勝5敗
二塁打 (名)大沢
三塁打 (金)瀬井
中山正嘉、熱投12奪三振
この試合が、鳴海球場で行われた名古屋vs金鯱戦の公式戦としては歴史上唯一の試合となります。日本運動協会(芝浦協会)、宝塚運動協会、天勝野球団以降のプロ野球公式戦は昭和11年に始まりますが、昭和11年は小さなリーグ戦やトーナメント戦形式で行われています。昭和11年5月16、17日に行われた第1回日本職業野球連盟試合・名古屋大会が鳴海球場で開催されましたが、ここには金鯱が参加しておらず両チームの対戦はありませんでした。同年10月4~6日に第2回全日本野球選手権大会・名古屋大会が鳴海球場でトーナメント方式で行われました。1回戦のタイガースvs名古屋の勝者が金鯱と対戦する組合せとなりましたが10対5でタイガースが勝ったため名古屋vs金鯱戦は実現しませんでした。昭和15年にも鳴海球場で公式戦が8試合行われますが、4月20日が名古屋vs南海、阪急vsセネタース、4月21日が阪急vs名古屋、南海vsセネタース、満州シリーズを経て10月26日が翼vs金鯱、巨人vs黒鷲、10月27日が翼vs黒鷲、巨人vs金鯱のみで名古屋vs金鯱戦は行われておりません。
14時28分、川久保喜一主審の右手が上がり試合開始。ここまで名古屋は1勝4敗、金鯱は1勝5敗で最下位争いを繰り広げているが、ここは熱戦を期待したいところ。
金鯱は2回、一死後中山正嘉は三振、ところがキャッチャー三浦敏一が正規に捕球できず中山は一塁に走る、三浦から一塁への送球が逸れて中山は一塁に生きる。いわゆる振り逃げである。記録は「K 2’」となっている。三振は通常「SO-2」と記録され、捕手には刺殺が記録される。キャチャーが正規に捕球できなかった場合は打者走者にタッチするか一塁に送球してアウトにする必要があり、打者がアウトであれば「K 2-3」と記録され、三振ナットアウトではあるが投手には奪三振が記録される。スリーストライク目が暴投であればピッチャーにワイルドピッチが、捕逸であればキャッチャーにパスボールが記録されるが本件は「2’」と記録されキャッチャーにエラーが記録されており、一塁への送球が逸れたか、打者走者にぶつけてしまいセーフになったと考えられる。中山は一塁に生きるがピッチャー松尾幸造には奪三振が、中山には三振が記録される。ということで一死一塁、松元三彦の三ゴロで中山は二進、武笠茂男が左前にタイムリーを放ち1点を先制する。
金鯱は3回、この回先頭の佐々木常助が四球、トップに返り五味芳夫が左翼線ヒット、江口行男が送って一死二三塁、ここで第一試合でも二本のタイムリーを放った瀬井清が右中間に三塁打を放ち3-0、続く小林茂太の初球に松尾がワイルドピッチ、4-0とする。
名古屋は4回、この回先頭の鈴木秀雄四球、桝嘉一四球、白木一二の二ゴロで桝は二封、小島茂男三振、三浦敏一四球で二死満塁、ここで七番倉本信護が右翼線に二塁打を放って2-4、松尾に代わる代打石田政良が中前にタイムリーを放ち3-4、石丸藤吉が右前にタイムリーを放ち下位打線の活躍で同点に追い付く。名古屋は4回から二番手繁里栄が登板。名古屋・鳴海球場での名古屋ダービーは白熱の展開となってきた。
金鯱は5回、江口、瀬井連続四球、小林茂はピッチャーへの内野安打で無死満塁、中山が押出し四球を選んで5-4とする。
名古屋は繁里から木下博喜に継投して金鯱打線を無得点に抑えるが、中山正嘉も5回以降名古屋打線を無得点に抑えきり、中山は4安打8四球12三振の力投を見せる。
技巧派と言われる中山正嘉であるが、フランチャイズ球場でのライバル名古屋戦とあって燃えたか、6回以降の4イニングで7三振を奪う。中山は昭和10年夏の甲子園優勝投手、「夏将軍」と呼ばれる松山商業に甲子園初優勝をもたらした。この時のメンバーからは伊賀上良平、千葉茂始め大挙してプロ野球に身を投じている。
*鳴海球場における名古屋vs金鯱戦を伝えるスコアブック
*中山正嘉振り逃げの場面
*中山の熱投を伝えるスコアブック
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 4 0 0 0 0 0 4 名古屋 1勝5敗 0.167 松尾幸造 繁里栄 木下博喜
0 1 3 0 1 0 0 0 X 5 金鯱 2勝5敗 0.286 中山正嘉
勝利投手 中山正嘉 1勝1敗
敗戦投手 松尾幸造 0勝5敗
二塁打 (名)大沢
三塁打 (金)瀬井
中山正嘉、熱投12奪三振
この試合が、鳴海球場で行われた名古屋vs金鯱戦の公式戦としては歴史上唯一の試合となります。日本運動協会(芝浦協会)、宝塚運動協会、天勝野球団以降のプロ野球公式戦は昭和11年に始まりますが、昭和11年は小さなリーグ戦やトーナメント戦形式で行われています。昭和11年5月16、17日に行われた第1回日本職業野球連盟試合・名古屋大会が鳴海球場で開催されましたが、ここには金鯱が参加しておらず両チームの対戦はありませんでした。同年10月4~6日に第2回全日本野球選手権大会・名古屋大会が鳴海球場でトーナメント方式で行われました。1回戦のタイガースvs名古屋の勝者が金鯱と対戦する組合せとなりましたが10対5でタイガースが勝ったため名古屋vs金鯱戦は実現しませんでした。昭和15年にも鳴海球場で公式戦が8試合行われますが、4月20日が名古屋vs南海、阪急vsセネタース、4月21日が阪急vs名古屋、南海vsセネタース、満州シリーズを経て10月26日が翼vs金鯱、巨人vs黒鷲、10月27日が翼vs黒鷲、巨人vs金鯱のみで名古屋vs金鯱戦は行われておりません。
14時28分、川久保喜一主審の右手が上がり試合開始。ここまで名古屋は1勝4敗、金鯱は1勝5敗で最下位争いを繰り広げているが、ここは熱戦を期待したいところ。
金鯱は2回、一死後中山正嘉は三振、ところがキャッチャー三浦敏一が正規に捕球できず中山は一塁に走る、三浦から一塁への送球が逸れて中山は一塁に生きる。いわゆる振り逃げである。記録は「K 2’」となっている。三振は通常「SO-2」と記録され、捕手には刺殺が記録される。キャチャーが正規に捕球できなかった場合は打者走者にタッチするか一塁に送球してアウトにする必要があり、打者がアウトであれば「K 2-3」と記録され、三振ナットアウトではあるが投手には奪三振が記録される。スリーストライク目が暴投であればピッチャーにワイルドピッチが、捕逸であればキャッチャーにパスボールが記録されるが本件は「2’」と記録されキャッチャーにエラーが記録されており、一塁への送球が逸れたか、打者走者にぶつけてしまいセーフになったと考えられる。中山は一塁に生きるがピッチャー松尾幸造には奪三振が、中山には三振が記録される。ということで一死一塁、松元三彦の三ゴロで中山は二進、武笠茂男が左前にタイムリーを放ち1点を先制する。
金鯱は3回、この回先頭の佐々木常助が四球、トップに返り五味芳夫が左翼線ヒット、江口行男が送って一死二三塁、ここで第一試合でも二本のタイムリーを放った瀬井清が右中間に三塁打を放ち3-0、続く小林茂太の初球に松尾がワイルドピッチ、4-0とする。
名古屋は4回、この回先頭の鈴木秀雄四球、桝嘉一四球、白木一二の二ゴロで桝は二封、小島茂男三振、三浦敏一四球で二死満塁、ここで七番倉本信護が右翼線に二塁打を放って2-4、松尾に代わる代打石田政良が中前にタイムリーを放ち3-4、石丸藤吉が右前にタイムリーを放ち下位打線の活躍で同点に追い付く。名古屋は4回から二番手繁里栄が登板。名古屋・鳴海球場での名古屋ダービーは白熱の展開となってきた。
金鯱は5回、江口、瀬井連続四球、小林茂はピッチャーへの内野安打で無死満塁、中山が押出し四球を選んで5-4とする。
名古屋は繁里から木下博喜に継投して金鯱打線を無得点に抑えるが、中山正嘉も5回以降名古屋打線を無得点に抑えきり、中山は4安打8四球12三振の力投を見せる。
技巧派と言われる中山正嘉であるが、フランチャイズ球場でのライバル名古屋戦とあって燃えたか、6回以降の4イニングで7三振を奪う。中山は昭和10年夏の甲子園優勝投手、「夏将軍」と呼ばれる松山商業に甲子園初優勝をもたらした。この時のメンバーからは伊賀上良平、千葉茂始め大挙してプロ野球に身を投じている。
*鳴海球場における名古屋vs金鯱戦を伝えるスコアブック
*中山正嘉振り逃げの場面
*中山の熱投を伝えるスコアブック
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