7月6日 (土) 後楽園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 セ軍 15勝25敗 0.375 一言多十
0 0 0 0 0 1 0 0 X 1 タ軍 23勝16敗 0.590 野崎泰一
勝利投手 野崎泰一 3勝5敗
敗戦投手 一言多十 3勝6敗
三塁打 (タ)藤村
勝利打点 (タ)藤村冨美男 2
野崎泰一、2安打完封
第11節3日目は後楽園と西宮で2試合ずつ。後楽園の第1試合は一言多十と野崎泰一の先発で午後1時丁度、島球審の右手が上がりプレイボール。
セ軍は初回、二死後飯島の当りは三遊間を抜くかという打球であったがサード藤村冨美男監督が好捕、一塁アウトでスリーアウトチェンジ。藤村のパフォーマンスが見られた。
タ軍は2回裏、先頭の富樫が左前打、この打球をレフト白木がファンブルして富樫は二塁に進むが、渡辺誠太郎のショートライナーに二走富樫が飛び出しダブルプレー。
セ軍は4回表、先頭の白木の当りは遊ゴロ、これをショート長谷川善三がエラー、飯島は三ゴロに倒れて一塁アウト、送球の隙をついて二塁に達していた白木が三塁に向かうがファースト渡辺からサード藤村に送球されてタッチアウト。
タ軍は4回裏、先頭の藤村は捕邪飛、続く本堂の当りは三塁線ファウルグラウンドへのハーフライナー、これをサード鈴木清一がファインプレー、富樫は投飛に倒れてスリーアウトチェンジ。
タ軍は6回裏、一死後土井垣が左前打で出塁、藤村が左中間に三塁打を放ち1点を先制する。
セ軍は8回表、一死後鈴木の当りは二塁にヒット性の当り、しかしこれをセカンド本堂が好捕して一塁アウト。
野崎泰一はセ軍打線を2安打1四球に抑えて無三振で完封、3勝目をマークする。
一言多十も6安打2四球3三振1失点とよく投げたが、藤村の一打に涙を飲んだ。
タ軍はここまで23勝であるが、呉昌征が8勝、藤村冨美男監督が5勝、御園生崇男が3勝と打者兼任投手が16勝、4勝をマークしている渡辺誠太郎も最近は打撃に重点を置いて首位打者となっている。唯一の投手専任となった野崎泰一がここまで最も勝ち星が少なかったが、この日は会心のピッチングを見せた。
呉港中学出身の野崎は1952年に地元の広島カープに移籍、翌年引退後は終生広島球団の発展に寄与して現在セ・リーグNo1の人気球団となった広島東洋カープの礎を築く。1975年には開幕から15試合で指揮権を放棄したジョー・ルーツ監督を古葉竹識監督が引き継いで球団初優勝につなげるが、ルーツ監督から古葉監督に引き継がれるまでの「空白の4試合」は、当時ヘッドコーチ格であった野崎泰一が「監督代行」を務め、3勝1敗の成績で古葉監督に引き継ぎ大役を果たすことになる。
野崎泰一氏は2009年7月に86歳で亡くなる。この日投げ合った一言多十氏は2010年4月に88歳で亡くなった。
*野崎監督代行時代の貴重な写真。「V1記念 広島東洋カープ球団史」(中国新聞社編集、昭和51年6月発行)より。
0 件のコメント:
コメントを投稿