2020年4月24日金曜日

補殺22個


 パ軍は7月7日のグ軍戦で先攻で敗れたので、8回で守備を終え、この8イニングで22個の補殺を記録した。1試合最多補殺記録は調べてみないと分からないが、「雑記」欄にわざわざ「パシフィックは24刺殺をなすに22補殺を要した。」と書かれているので珍しい記録であることは間違いない。

 特筆すべきは、グ軍の24個の刺殺の内、フライアウトが8個(ライナー1個を含む)もあるにもかかわらず達成された記録である点であろう。完投した井筒研一の奪三振数が「ゼロ」であることからキャッチャー伊勢川真澄の刺殺が「ゼロ」であったことも影響している。補殺無しの刺殺(フライアウトや三振)が少ない方が補殺数が増える可能性が高いためである。


 実況のとおり、パ軍は2つの「挟殺プレー」を完成させた。初回の1つ目は「5-2-6-1」の三本間の挟殺プレーで補殺は3個。3回の2つ目は一三塁から一走田川のディレードスチールに端を発した複雑な挟殺プレーで「2-6-3-5-4-6」で5個の補殺が記録された。この他に12個のゴロアウトと、伊勢川が1個盗塁を刺して、センター森下が中飛で飛び出した二走田川を刺して記録した補殺が1個で「3+5+12+1+1」=「22個」の補殺が記録された。


 「挟殺プレー」に一人の選手が複数回絡んでも記録される補殺は「1個」だけとなる。3回のプレーでは複数回絡んだ選手はおらず、5人が1回ずつ絡んで5個の補殺を記録した。ショート白石は二塁ベースからの送球で補殺1個と、三塁ベースに走ってセカンド高須からの送球を捕球し三走堀井をタッチアウトにして刺殺も「1個」記録した。


 この白石の機敏な動きこそ、高く評価できるプレーであった。白石は自伝のタイトルが「背番号8は逆シングル」であるように、バックハンドでの守備を得意としている。走者二塁で三遊間深くのゴロを逆シングルで捕球した際、二塁走者が三塁に走っていて一塁が間に合わないと判断した場合は、一塁に偽投して三塁でのオーバーランを誘い、三塁ベースに走ってタッチアウトにするプレーを得意としており、常に三塁走者を警戒しながらの守備が白石の特徴である。この日の三塁ベースカバーは、日ごろから三塁走者を観察する観察眼が優れていたことを証明している。


 実例を一つご紹介しよう。「V1記念 広島東洋カープ球団史」によると、昭和27年8月12日、北海道夕張で行われた対巨人戦で、1点リードの9回裏二死一二塁でバッター川上という場面、川上の三遊間を抜けるかという当りを逆シングルで捕球した白石は一塁に偽投、これに引っ掛かった内藤博文が三塁ベースをオーバーランしたところに白石が走り込んでタッチアウトにして広島が激戦を制した。この時内藤を追う白石の形相は「鬼神もこれを避けるほどすごいもの」であったという。


 昭和11年夏、茂林寺の特訓で打撃練習の際、白石は前川八郎の投球を頭に受けて昏倒するも練習を続けた。この気迫に押されて練習をさぼり気味だった沢村がトレーニングに励むようになり、秋の洲崎決戦で快投を見せることになる。沢村を蘇らせた白石の気迫は、16年後もいささかの衰えは無かったのである。


 なお、上記の北海道の試合で白石の偽投に引っ掛かった内藤は国体にも出場した陸上選手で昭和23年に巨人の入団テストに合格して入団、25年に白石が巨人に移籍してショートのレギュラーを掴むが26年には西日本パイレーツから名手平井三郎が巨人に移籍してきたことからこの年は得意の足を生かして代走要員であった。この時もヒットで出塁した千葉茂の代走に起用されたものである。内藤はこの後精進して名内野手、名指導者としての道を歩むことになる。白石の偽投に引っ掛かったことがきっかけとなったのでしょうか。


*「鬼神も避ける白石の形相」。「V1記念 広島東洋カープ球団史」(中国新聞社編集、昭和51年6月発行)より。


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