11月5日 (火) 甲子園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 南海 25勝64敗6分 0.281 川崎徳次 劉瀬章
0 0 0 0 0 7 0 0 X 7 阪神 55勝33敗3分 0.625 藤村隆男
勝利投手 藤村隆男 4勝2敗
敗戦投手 川崎徳次 0勝1敗
二塁打 (阪)本堂、藤村
勝利打点 なし
藤村隆男、今季3度目の完封
南海は川崎徳次がプロ入り2度目の先発。
その川崎は阪神打線を3回まで3人ずつで片付けてパーフェクトピッチング。
阪神は4回、先頭のジミー堀尾文人が二遊間に内野安打、堀尾が二盗を決め、皆川定之のバントが内野安打となって無死一三塁、本堂保次の投ゴロで皆川は二進して一死二三塁、しかし伊賀上良平は三振、カイザー田中義雄は投ゴロに倒れる。新人川崎は、秋季リーグ首位打者の田中と四位の伊賀上を抑え切った。
阪神は5回、一死後宮崎剛がバントヒット、藤村隆男が四球を選んで一死一二塁、森国五郎は左飛に倒れて二死一二塁、次のプレーは堀尾に「5FC」とだけ記録されている。堀尾の三ゴロをサード前田貞行がどこにも投げずベースタッチに行ったが二走宮崎の足の方が速く三塁ベースに到達したこととなる。内野安打ではなく野選が記録されて二死満塁、しかし皆川は三振に倒れてこの回も無失点。
一方、南海は2回~5回まで毎回先頭打者がヒットで出塁するが2回は吉川義次が遊ゴロ併殺、5回は川崎が二ゴロ併殺に倒れて無得点。
阪神は6回、先頭の本堂が左翼線に二塁打、伊賀上が四球を選んで無死一二塁、田中の投前送りバントが内野安打となり、ピッチャー川崎徳次の悪送球の間に二走本堂が生還して1点を先制、なお無死二三塁から松木謙治郎は遊ゴロに倒れて一死二三塁とするが宮崎がスクイズを決めて2-0、藤村が左中間に二塁打を放って3-0、森に代わる代打松尾五郎の左前打で二死一三塁、松尾が二盗を決め、キャッチャー吉川からの送球をセカンド国久松一が逸らす間に三走藤村が還って4-0、堀尾が四球を選び、皆川が中前にタイムリーを放って5-0としてなお二死一三塁、皆川の二盗の際にキャッチャー吉川が二塁に悪送球する間に三走堀尾が還って6-0、皆川は三塁に走り、バックアップしたセンター岩本義行からのバックサードが悪送球となる間に皆川が還って7-0として試合を決める。
7回から川崎に代わって二番手としてマウンドに上がった劉瀬章は7回、8回を三者凡退で切り抜ける。
藤村隆男は7安打2四球1死球1三振で今季3度目の完封、4勝目をあげる。
5回まで好投を続けた川崎徳次は6回に捕まったが、南海守備陣はこの回4失策を記録している(うち一つは川崎自身)。4回、5回のピンチを切り抜けたあたりに戦後も投げ続けて通算188勝することとなる片鱗が見られる。
藤村隆男も戦後まで投げ続けて通算133勝を記録することとなる。藤村は昭和14年センバツに呉港中学のエースとして出場するが一言多十の島田商業に2回戦で敗れている。この時藤村の控え投手であった野崎泰一とは戦後阪神でチームメイトとなる。
阪神から東急を経て地元広島に移籍した野崎は引退後長く広島でコーチ等を務める。1975年の広島初優勝の年は、ジョー・ルーツ監督からシーズン序盤で古葉監督に交代したことで有名ですが、ジョー・ルーツ監督が退団して古葉監督が就任する間の5試合は野崎監督代行が指揮を執っており、4月27日の甲子園での阪神とのダブルヘッダーは第一試合が引分け、第二試合は敗戦、しかし29日からの中日球場での中日三連戦に3連勝して古葉監督に絶妙のタイミングでバトンを渡します。野崎監督代行も後任監督の有力候補でしたが、本人が固辞したと言われています。古葉監督は即座に野崎にヘッドコーチ就任を要請します。広島ナイン、ファンの誰からも愛される人柄でした。初優勝時、チームフラッグを持って行進するナインの先頭は古葉監督と野崎コーチだったのです。
*6月21日追記:ルーツ監督は阪神とのダブルヘッダー第一試合の8回、佐伯の投じた球がボールと判定されたのに抗議して退場処分となり、第二試合の指揮権を放棄しましたので、正確には野崎が監督代行を務めたのは4試合となります。
*藤村隆男は今季3度目の完封で4勝目をあげる。
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