11月6日 (水) 後楽園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 3 0 0 2 1 0 0 0 6 名古屋 52勝37敗5分 0.584 西沢道夫
0 0 0 0 1 0 0 1 0 2 翼 46勝36敗10分 0.561 三富恒雄 浅岡三郎
勝利投手 西沢道夫 18勝9敗
敗戦投手 三富恒雄 4勝9敗
二塁打 (名)芳賀、大沢
本塁打 (名)村瀬 2号 (翼)山崎 1号
勝利打点 村瀬一三 2
村瀬一三決勝スリーラン
名古屋は2回、先頭の中村三郎が四球で出塁、服部受弘は左飛、岩本章は遊飛に倒れるが西沢道夫が左前打を放って二死一二塁、トップに返り村瀬一三が左翼ポール直撃の先制スリーランホームランを放って3-0とする。
翼・苅田久徳監督は4回の守備からファーストの高橋輝彦に代えて石井豊を起用、5回から先発の三富恒雄に代えて浅岡三郎を投入、更にレフトの織辺由三に代えて野口二郎を入れてファースト、ファーストの石井に代えて西岡義晴を入れてレフト、キャッチャーも佐藤武夫から小島二男に交代する。
名古屋は5回、代わったばかりの浅岡を攻めて、大沢清が中前打で出塁、一死後中村の三ゴロでランナーが入れ替わり、服部が中前打を放って二死一二塁、岩本が四球を選んで二死満塁、西沢が左前に2点タイムリーを放って5-0と突き放す。
翼は5回裏、先頭の苅田が左前打で出塁、横沢七郎の三ゴロの間に苅田は二進、西岡の中前打で一死一三塁、小林茂太の遊ゴロをショート村瀬が失する間に苅田が還って1-5とする。小林には打点が記録されている。
名古屋は6回、先頭の芳賀直一が四球で出塁、桝嘉一は二飛に倒れるが、大沢が右中間に二塁打を放って一死二三塁、吉田猪佐喜の遊ゴロの間に芳賀が還って6-1とする。
翼は8回、先頭の山崎文一がレフトスタンドにホームランを放って2-6、更に柳鶴震、小島が連続四球を選んで無死一二塁、しかしここで西沢が踏ん張り浅岡、野口、苅田を三者連続三振に打ち取りピンチを脱する。
西沢は最終回も一死一塁から小林、山崎を連続三振で締めくくり、4安打10四球5三振の完投で18勝目をあげる。
2回に決勝スリーランを放った村瀬一三は昭和13年~16年まで在籍して全シーズンで本塁打を放っている(16年は阪神在籍時)強打の遊撃手であったが惜しくも戦死することとなる。
一方、山崎文一はこの日のホームランがプロ在籍では唯一の本塁打となった。山崎は昭和11年にセネタースの結成に参加し、同年4月29日に行われた第1回日本職業野球リーグ戦において、セネタース初の公式戦となった阪急戦でセネタース初代四番を務めている。11年限りで応召し、15年にプロ野球に復帰してきたがプロでの活躍は今季が最後となった。恐らく2度目の応召でしょう。山崎は戦争の時代を生き抜き、戦後もノンプロでプレーを続ける。「商売人と言われた職業野球」様によると、「戦後は豊岡物産でプレーした」とのことです。「都市対抗野球大会60年史」には、昭和23年の第19回大会準決勝、西日本鉄道vs豊岡物産戦のテーブルスコアに「六番ライト山崎」と書かれていますので、これが山崎文一のことでしょう。
*西沢道夫は10四球を与えるが終盤5三振を奪う力投、150球の完投で18勝目をあげる。
*村瀬のホームランは「雑記欄」に「ポールに当る」と書かれています。
*昭和11年5月25日発行「聯盟広報」第二号に掲載されたセネタース軍の結成メンバー。
*セネタース公式戦初試合で四番に入った山崎文一を伝える聯盟広報。
山崎文一は、初年度の1936(昭和11)年の春夏大会では全て四番打者を務めていますが、あまり話題になりませんね。
返信削除東京セネタースは春の大会では全て優勝しているのですが…。
余談ですが、今から6、7年ほど前にネット上のニュース記事に山崎のインタビューがありましたね。
ほとんど記憶に残っていませんが、浦和中時代にレフティ・オドールから指導を受けたとか、プロ時代は怪我に泣いたとか、細かい経歴が書いてあったように思います。
http://eiji1917.blog62.fc2.com/
山崎文一のインタビュー記事は知りませんでした。
削除浦和中学と言えば現・埼玉県立浦和高等学校。公立校としては東大合格者数全国一位です。神奈川県の湘南高校をライバル視しているようです。浦和中学、浦和高校を通じてプロ野球に進んだ選手は少数ですが実績では山崎文一がNo1でしょう。
埼玉県高校野球史でも、大宮工業の吉沢、深谷商業の竹内、浦和学院の鈴木健、粘りの上尾高校、春日部高校の青島健太、市立川口の斎藤雅樹と並ぶ名選手と言えるのではないでしょうか。