昭和15年11月6日付け読売新聞は「倉本、金鯱へ移籍」の見出しで「日本野球聯盟理事会では5日、嘗て阪急、名軍に在籍した倉本選手の金鯱移籍を承認した 背番10 倉本信護 内野 広陵出 28歳」と伝えている。昭和13年秋季11月17日以来プロ野球の世界から姿を消していた倉本信護が帰ってまいりました。
倉本信護の経歴は「Wikipedia」を始め多くのサイトで誤って伝えられています。「Wikipedia」では「1940年に金鯱に移籍して二度目の応召で満州に渡り撫順市満鉄倶楽部の4番打者として代表決定戦で新京電々の西村幸生を打ち込み、第14回都市対抗野球大会に出場。」と書かれていますが順番が逆です。倉本は昭和15年8月の都市対抗野球に撫順市代表の満鉄倶楽部の四番打者として出場していますが金鯱に移ったのは同年11月のことです。
「商売人と言われた職業野球」様が書いているとおり、「36年阪急軍の結成に参加・・・37年8月名古屋軍に移籍・・・同年限りで退団。退団後の40年撫順満鉄倶楽部の四番打者として都市対抗に出場している・・・同年11月名古屋金鯱軍で復帰。」が正解です。
「聯盟理事会が金鯱移籍を承認」とのことなので、聯盟としては名古屋に所属していると認識していたようですが8月の都市対抗に撫順満倶の四番打者として出場しているところがこの人らしいところです。およそ権威、組織などとは無縁の人生を送ってきた訳です。この時の撫順満倶のエースは川崎徳次でした。川崎も10月に南海入りしていますので倉本もプロ復帰を打診されたのでしょう。
戦後は国民リーグでホームラン王になり、48年には前橋市代表として山藤商店で都市対抗に出場(四番キャッチャー)、49年には鹿沼市代表として古沢建設で都市対抗に出場(六番ファースト)するなどバット一本で社会人球界を渡り歩いています。
倉本信護の野球人生はshokuyakyu様が"およそ権威、組織などとは無縁の人生を送ってきた"と書かれている通りですね。
返信削除倉本が名古屋軍に在籍していた時、こんな逸話が残っています。
「(前略)赤嶺は、このチームをなんとか強くするため、背後の生活態度を改めようとしたが、思うにまかせなかった。
(中略)タイガースと帯同で、京城にでかけ、御成旅館に宿泊していたときだ。赤嶺が朝玄関で新聞をよんでいると、外泊して朝がえりの倉本とパッタリ顔をあわせた。新幕という駅から、東京に帰れと、汽車賃と弁当代を渡して立去らせた。(後略)」(著:大井廣介 物語プロ野球史)
大和球士氏によれば、倉本は根本行都監督の反発する造反組の1人だったという話があります。
早大出の根本監督の早大式のスパルタ練習に名古屋軍の選手たちは辟易したそうです。加えて、当時の名古屋軍には出身が東都五大学、地方の実業団の選手が多かったものですから、東京六大学出の新参監督がデカいツラしているのが気に入らない、いわゆる造反組が自然とできてしまったそうです。
恐らく、朝鮮での朝帰り事件も根本監督へのあてつけもあったでしょう。
金鯱軍に復帰する時、所属が名古屋軍のままになっているのが面白いですね。
ちなみにですが、この選手登録とはいい加減なもので、理事会で登録が可決されない限り、選手は試合に出場できないのです。
当時の連盟委員のほとんどが各チームの球団代表でしたから、自チームの選手登録の際に根回しに色々と苦労したそうです。
ですから、揉め事になる場合が少なくなく、兵役から復帰した南海軍の岩本義行、阪急軍の新富卯三郎の時はちょっとした騒動になっていますね。
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削除12年春季七位、秋季最下位の名古屋は13年に根本行都監督が就任して13年春季七位から秋季四位と浮上しますが選手の締め付けは厳しかったようですね。当時の名古屋は大沢清、白木一二の国学院大学コンビ、日大の三浦敏一が主力でした。
返信削除14年6月に根本監督が解任されて自由奔放したい三昧の小西得郎監督が就任すると名古屋は勢い付き、15年春季シリーズは優勝寸前まで行きます。14年最後の10試合はで7勝2敗1分の勢いをそのまま持ちこしました。