5月11日 (木) 後楽園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 金鯱 6勝17敗 0.261 古谷倉之助
0 0 0 0 1 0 0 0 X 1 セネタース 11勝11敗 0.500 浅岡三郎 野口二郎
勝利投手 野口二郎 6勝5敗
敗戦投手 古谷倉之助 1勝4敗
二塁打 (金)野村、古谷 (セ)苅田
野口二郎三連投!
金鯱は古谷倉之助、セネタースは浅岡三郎と両ベテランが先発。
セネタースは5回、先頭の苅田久徳が四球で出塁、二盗を決めて無死二塁、横沢七郎が左前にタイムリーを放ち、これが決勝点となった。
スコアブックの天候欄には「晴 南強風」、「砂塵あり」と記載されている。翌日の読売新聞にも「この日スコアボードの両脇を抉(えぐ)って吹き込んでくる烈風は球場に砂塵を巻き上げて両軍選手の試合運行頗る困難であった。」と書かれている。当時は黄色いビルも後楽園ゆうえんちも無く、吹きっさらしだったのでしょう。当時の文献にも砂塵は「後楽園名物」などと書かれています。
古谷倉之助は追い風を利してストレートの走りが良かったようで、久々の好投を見せたが1点に泣いた。カーブを武器とする浅岡三郎は追い風に弱く、洲崎球場時代はカーブが曲がらずに苦労していたが、その時の経験を生かして風対策も万全だったのであろう。
鈴木惣太郎の論評によると「この試合こそ走塁の巧拙によって決せられたもの」とのこと。セネタースの得点の場面は横沢七郎の送りバントが決まらず、カウントツーツーとなったところで苅田が二盗を決めて横沢のタイムリーで還ったものであった。金鯱は7回、古谷の内野安打から送りバントとワイルドピッチで一死三塁としたが長島進の投ゴロに古谷が飛び出しタッチアウト、浅井太郎が四球を選んで二死一二塁としたがキャッチャー佐藤武夫の一塁牽制に浅井は戻れず一二塁間に挟まれ、二走長島は三塁に走ったがファースト野口二郎からの送球に刺された。
金鯱は最終回、古谷が左翼線に二塁打を放ち、瀬井清の遊ゴロを柳鶴震がエラーして一死二三塁、ここでセネタースは好投の浅岡から野口二郎にスイッチ、金鯱は長嶋に代えて武笠茂男を代打に送る。覚えておられる読者の方もいらっしゃるかと思いますが、武笠は野口二郎のデビュー戦で4打数3安打しています。野口は苦手の武笠との勝負を避けて一死満塁、追い風に乗って野口の球速はいつもよりも増して代打高久保豊三を二飛、岡野八郎を遊ゴロに抑えてセネタースは三連勝を飾る。野口二郎は三日連投で三連勝。“北の狼”火浦健みたいです(詳しくは「水島新司著「野球狂の詩」をお読みください。“北の狼・南の虎”の方ではなく“狼の恋”(このタイトルもうろ覚えで申し訳ありませんが)の方ではなかったかと思います。)。
この試合も現行ルールでは勝利投手は浅岡三郎ですが公式記録では野口二郎に記録されています。浅岡は8回3分の1を投げて6安打2四球2三振の好投を見せていますので野口を勝利投手とする理由は見当たりません。三連投を評価したのでしょうか。当時の記録員の証言によると、「当時はリリーフ投手に有利に勝利投手を記録していた思う」とのことなので、この試合などは典型事例でしょう。ここからは全くの推測にすぎませんが、投手の数が少なかった当時は「投手を潰さないよう、なるべく継投策を取るように」というムードが醸成されていたのではないでしょうか。そのためリリーフ投手重視の雰囲気が醸し出され、勝利投手の記録もリリーフ投手に有利に働いていたのではないでしょうか。或はその奨励策という意味もあったかもしれません。
*野口二郎は三連投三連勝。
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