2011年9月18日日曜日

14年 ジャイアンツvsイーグルス 4回戦


5月11日 (木) 後楽園


1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
2 0 0 0 1 2 0 0 1 6 ジャイアンツ 15勝8敗         0.652 中尾輝三 スタルヒン
0 1 1 0 2 0 0 0 X 4 イーグルス   10勝14敗1分 0.417 望月潤一 亀田忠


勝利投手 スタルヒン 10勝4敗
敗戦投手 望月潤一    1勝4敗


二塁打 (ジ)千葉
三塁打 (ジ)吉原

スタルヒン、10勝


 ジャイアンツは中尾輝三、イーグルスは前回名古屋戦で完封勝利の望月潤一と両左腕投手が先発。

 ジャイアンツは当っている白石敏男が肩痛のため欠場。(五)水原茂、(四)千葉茂、(九)中島治康、(三)川上哲治、(八)アチラノ・リベラ(アデラーノ・リベラ)、(七)平山菊二、(六)井上康弘、(二)吉原正喜、(一)中尾輝三の新オーダーを組む。ショートには井上が回り千葉がセカンドに入る。川上が初の四番起用となったが、これは白石が欠場したため水原以下が一つずつ繰り上がったにすぎない。

 ジャイアンツは初回、先頭の水原が四球、千葉の二ゴロでランナーが入れ替わり、中島治康の右前打で一死一三塁、中島が二盗を決めた際、キャッチャー伏見五郎の二塁送球をショート山田潔がエラーする間に三走千葉が還って1点を先制、新四番川上は遊飛に倒れるがリベラの右飛をライト太田健一がエラーする間に中島が還って2-0とする。

 イーグルスは2回、一死後杉田屋守が右翼線にヒット、伏見は二飛に倒れるが望月潤一が中前打を放って二死一三塁、辻信夫が右前にタイムリーを放って1-2とする。好調山田の影に隠れているが、山田よりも更に打力が落ちると言われる辻もこのところよく当っている。

 イーグルスは3回、一死後山田が四球で出塁、太田が中前打で続いて一二塁、中河美芳は三振に倒れるが杉田屋が左前にタイムリーを放って2-2の同点に追い付く。

 ジャイアンツは5回、二死後水原がキャッチャーの打撃妨害に生き、千葉が右中間に二塁打を放って水原が一塁から長駆生還、3-2とする。

 イーグルスは5回裏、先頭の山田が四球で出塁、太田が送って一死二塁、中河の投ゴロで山田は二三塁間に挟まれるがジャイアンツ内野陣の凡プレーで三塁セーフ。このシーンを翌日の読売新聞は「水原の二塁へ追い込みすぎに加えて千葉、井上と共に塁を空にして呆然と追撃に眺め入った不覚あって・・・走者を生かす。」と伝えている。ここは白石欠場の影響でしょう。更に杉田屋が四球を選んで一死満塁、伏見への初球がボールとなったところでジャイアンツ藤本定義監督は中尾をあきらめてスタルヒンを投入する。しかし伏見が右前に同点タイムリーを放って3-3、望月が押出し四球を選んで4-3と逆転に成功する。辻信夫は三振、漆原進は左飛に倒れてスリーアウトチェンジ。

 ジャイアンツは6回、一死後平山が四球で出塁、井上の三ゴロをサード漆原が二塁に悪送球して一死一二塁、続く吉原は一飛に倒れるがこの当りで走者二人がタッチアップから進塁して二死二三塁、スタルヒンが中前にタイムリーを放ち4-4の同点、二走井上も三塁ベースを蹴ってホームに突っ込む。センター寺内からのバックホームはアウトのタイミングであったが伏見が落球して5-4と再度逆転に成功する。水原が左前打で続き一死一二塁となったところで望月が退き亀田忠がリリーフのマウンドに上がる。千葉が四球を選んで二死満塁、しかし中島は右飛に倒れてスリーアウトチェンジ。

 ジャイアンツは9回、四球の井上を吉原の左中間三塁打で還して6-4とする。

 スタルヒンは6回以降2安打無失点に抑え、最後は中河、杉田屋を連続三振に斬って取って10勝一番乗りを果たす。


 望月潤一は5失点で降板したが自責点はゼロであった。望月投手のご子息のブログによると、望月とスタルヒンは仲が良かったそうです。望月投手は当時としては珍しく英語が得意でバッキー・ハリスとも親しかったそうです。戦時中はフィリピンで帰国していたアチラノ・リベラ(アデラーノ・リベラ)とも親交があったそうで、戦前の純然たるカタカナ表記の選手としては昭和11年のみ在籍したジミー・ボンナ、ハーバート・ノース以外とは全員親交があったようです。但しスタルヒンは英語は得意ではなかったので、純粋に人間的なつながりだったのでしょう。





         *スタルヒン好リリーフを見せて10勝一番乗り。



2 件のコメント:

  1. 折角のジャイアンツ戦でしたが、エラーもあり今一つ乗れず負け試合となり、残念でした。5失点で自責ゼロとは。でも運も
    実力のうちですから、しょうがないでしょう。親父はハリスさんには、本当に良く可愛がってもらってたようです。スタルヒンとは、現役の時よりも、晩年のロビンス時代にオープン戦で観客として再会してからの方が親交があったようです。リベラとは戦争中の再会からです。両チームとも後楽園がホームだったことから、交わる機会も良くあったのではと思います。

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  2. 当時は東西に分かれての二場開催でしたので、四~五チームが同じ場所に集まることが多かった訳で、選手同士が交流する場は多かったのかもしれません。それにしても貴重なお話ですね。

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