10月4日 (日) 後楽園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 3 0 0 3 0 6 朝日 36勝41敗5分 0.468 林安夫 大橋一郎
0 0 0 0 0 0 0 0 2 2 大洋 48勝29敗5分 0.623 野口二郎
勝利投手 林安夫 23勝18敗
敗戦投手 野口二郎 30勝13敗
二塁打 (朝)酒沢
三塁打 (朝)酒沢
本塁打 (朝)広田 1号、浅原 3号
勝利打点 酒沢政夫 1
広田修三、浅原直人が2者連続本塁打
この試合では「飛ぶボール」が使用された。
1回、2回と三者凡退の朝日は3回二死後酒沢政夫が二塁打、4回も二死後浅原直人が左前打を放つが後続なく無得点。
朝日は5回、先頭の林安夫が左前打で出塁、早川平一も左前打で続き、斉藤忠二が送って一死二三塁、酒沢政夫がセンター右奥に三塁打を放って2点を先制、トップに返り坪内道則の中犠飛で3-0とする。
朝日は8回、先頭の坪内が遊失に生きるが二盗に失敗、原秀雄の三塁内野安打で一死一塁、ここで広田修三が初球を叩いてレフトスタンドにツーランホームラン、更に浅原も初球を左翼席に叩き込んで2者連続本塁打、6-0と突き放す。
朝日は9月16日の名古屋戦でも2者連続ホームランを放ったが、その時は鬼頭政一と浅原直人であった。浅原は2度目の連続本塁打を記録した。
朝日先発の林安夫は大洋打線を8回まで4安打無失点に抑え込む。
朝日竹内愛一監督9回から林をレフトに回しマウンドにはプロ入り初登板となる大橋一郎を送り込む。同時に急造キャッチャーの斉藤忠二をファーストに回して、キャッチャー経験豊富な広田をファーストから呼び寄せマスクを被らせる。
大洋は9回、一死後濃人渉が四球を選んで出塁、野口二郎の三ゴロをサード岩田次男が一塁に悪送球して一死一三塁と若い大橋の足を引っ張る。野口明も四球を選んで一死満塁、古谷倉之助が押出し四球を選んで1-6としてなお一死満塁、ここで竹内監督はレフトから林を呼び戻して再びマウンドに送る。浅岡三郎の二ゴロ併殺崩れの間に三走野口二郎が還って2-6、最後は祖父江東一郎が中飛に倒れ、朝日が冷や汗をかいたが逃げ切る。
先発して勝利投手となった林安夫はセーブシチュエーションで再登板して抑えたので、勝利投手とセーブを同時に達成したこととなるが、現在ではこのケースではセーブは記録されない。
1974年8月18日の日本ハム対近鉄戦で高橋直樹が勝利投手とセーブを同時に記録したが、これをきっかけとしてルールが改正されてセーブの条件に「勝利投手にならなかった場合」が加えられた。したがって、昭和17年の段階では勝利投手とセーブを同時に記録しても構わないこととなりますが、ここは現行ルールに従うこととします。
2011年1月8日付けブログ「13年春 阪急vs金鯱 3回戦 」において、中山正嘉が勝利投手とセーブを記録しています。プロ野球史上初の快挙は1974年の高橋直樹ではなく、昭和13年春の中山正嘉でした。この時は高橋直樹同様、「勝利投手とセーブ」としてお伝えしていますが、その後は同様のケースでは勝利投手のみを記録してお伝えしています。まぁ、三原監督時代は西鉄時代、毎日戦で稲尾が苦手の葛城を迎えると稲尾を一塁に回してワンポイントリリーフに下手投げを送り、再び稲尾を登板させたり、大洋時代はアンダーハンドの秋山が左バッターを迎えるとレフトに回して左腕・権藤を送って打ち取り、再び秋山を戻すなどの三原マジックをやっていましたので、「高橋直樹のケースは」セーブが記録として制定されたから顕在化しただけのことで、探せばいくらでも同様のケースがあるのでしょう。点差だけでセーブが付くかが判別できる試合もありますが、本日の試合のようにスコアカードを調べないと判別できないケースもあります。
*「雑記」欄に「飛ぶ球使用」と書かれている。
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