3月26日 (火) 後楽園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 0 0 0 1 1 ライオン 3勝4敗 0.429 福士勇
0 0 0 0 0 0 6 0 X 6 セネタース 3勝4敗1分 0.429 浅岡三郎
勝利投手 浅岡三郎 1勝0敗
敗戦投手 福士勇 0勝3敗
二塁打 (ラ)鬼頭 (セ)石井
本塁打 (セ)佐藤 1号
勝利打点 山崎文一 1
佐藤武夫満塁弾、福士勇完全試合を逃す
セネタースは四番ライトで山崎文一が今季初出場、苅田久徳が一番に戻る。
セネタースは初回、苅田が左飛、横沢七郎が中飛、野口二郎は右飛に倒れる。2回、山崎のプロ入り初打席は右飛、柳鶴震は二ゴロ、石井豊は遊ゴロ、2回の攻撃は3人とも2球目を打ったものであった。3回、浅岡三郎はツーワンから見逃し三振、佐藤武夫は遊飛、織辺由三は左飛に倒れる。
セネタースは4回、苅田が2球目を左飛、横沢は4球目を三ゴロ、野口は初球を中飛。5回、山崎は初球を中飛、柳は遊飛、石井は三ゴロに終わる。6回、浅岡は初球を左飛、佐藤は2球目を左飛、織辺は初球をたたいて二ゴロに倒れる。
ライオン先発の福士勇は6回まで一人の走者も出さず、翌日の読売新聞で鈴木惣太郎は「福士はドロップの切れ味凄くセ軍打者を三者ずつ綺麗に片づけて“完全試合”の達成を予想せしめた。」と書いている。昭和15年の時点で「完全試合」の概念が認識されていたことを伝える貴重な証言でもある。
セネタースは7回、先頭の苅田が左前打を放って完全試合は消える。続く横沢はワンスリーから四球、翌日の読売新聞によると「福士は一塁走者苅田の偽装盗塁に釣られて横沢に四球を与えた。この苅田の投手牽制は実に巧いもので、これがセ軍6点の原動力をなしている。」とのこと。野口の遊ゴロで横沢は二封、野口が二盗を決めて一死二三塁、山崎のプロ入り初安打が中前タイムリーとなって1点を先制、山崎が福士からの牽制球に釣り出されて一二塁間に挟まれる間に三走野口が還って2-0、山崎は「1-3-4-3」でタッチアウト。柳が右前打を放って二死一塁、石井が左翼線に二塁打を放って二死二三塁、浅岡がツースリーから四球を選んで二死満塁、このチャンスに佐藤がレフトスタンドに満塁ホームランを叩き込んで6-0とする。
ライオンは9回、一死後鬼頭数雄がノースリーから打って出て左中間に二塁打、二死後西端利郎が右前にタイムリーを放って1-6とするが松岡甲二に代わる代打伊藤吉男が三振に倒れてゲームセット。
浅岡三郎は6安打3四球5三振の完投で1勝目をあげる。
セネタースの四番で今季初出場となった山崎文一は昭和11年に日大からセネタースに入団、我が国プロ野球初の公式戦となった昭和11年4月29日から行われた第1回日本職業野球リーグ戦(巨人軍は第2回アメリカ遠征中のため不参加)初日のセネタースvs阪急戦にも四番ライトで出場して5打数1安打1得点を記録している。昭和12年1月25日発行「日本野球連盟ニュース第11号」に「入営選手」が公表されており、山崎文一は「麻布歩兵第三連隊留守隊二ノ十三(満州O南小浦部隊気付浅尾隊)」に配属されたと記載されている。昭和11年最後の出場は12月5日のタイガース戦なので、本日の出場は約3年半ぶりのこととなる。
昭和11年に山崎文一が付けていた背番号5番は12年~14年は尾茂田叶が付けていたが尾茂田が応召で抜けて山崎が再び付けることとなった。
完全試合を逃した福士勇は青森商業から青森林友を経由して昭和13年にライオンに入団した。東北の社会人野球は秋田と宮城が強く、青森県から都市対抗野球に出場したチームはこれまで昭和14年の青森林友だけである。
*浅岡三郎は6安打完投で1勝目をあげる。福士勇は6回までパーフェクトピッチングであった。
*6回まで福士勇にパーフェクトに抑えられたセネタース打線。四番ライト山崎文一は戦場から戻って昭和11年12月以来約3年半ぶりの出場となった。
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