2011年4月26日火曜日

木樽と成田

 通常訃報というのは朝刊で知るものですが昨晩はネットに流れていました。昨日付けブログでは「1970年のMVPが25勝の成田ではなく21勝の木樽だったことが不思議な気がした」と書きましたが、当時は本当に不思議な気がしたのですが今では大体の事情は察しています。1970年は黒い霧事件で西鉄の永易、益田、与田、池永が永久追放になった年で、成田氏も黒い交際が報じられたことがMVP投票に影響したのでしょう。今朝はどういう報道がされるのかが気になっていましたが、この件については私の知る限り(と言っても読んだのは日経とスポニチだけですが)触れられてはいないようです。と言うより日本経済新聞は社会面だけでスポーツ面では訃報を掲載しませんでした。


 一番知りたかった木樽正明氏(現在は巨人の編成部にいらっしゃるようです)のコメントがスポニチに掲載されています。スライダーを教えてもらい「僕の恩人」だそうです。1970年は木樽のシュート、成田のスライダー、小山のパームボールでパ・リーグを制したものです。成田に習ったスライダーで、よりシュートの威力が増したのでしょう。


 木樽と成田はどちらがエースだったのか。木樽は腰に持病を抱えており活躍期間は短く、通算175勝の成田に対して112勝で終わっています。優勝時の印象では木樽であったとも言えますが、結論としては日本野球史上有数の「Wエース」であったと思います。


 「Wエース」と言えば「小山・村山」、「村山・バッキー」、「江夏・上田」、「江川・西本」、「ウォーレン・スパーンとジョニー・セイン」、「サンディ・コーファックスとドン・ドライスデール」、「ランディ・ジョンソンとカート・シリング」、今なら「杉内・和田」など。隣県の高校から一年違いで入って長期にわたり「Wエース」を形成した事例は、日本野球史上有数どころか稀有のものであったと言えるでしょう。
 
 スポニチ掲載の有藤(成田と同年齢、有藤は高知高から近畿大学を経てロッテに入団)のコメント「右肘を痛めていた晩年、球団から二軍コーチを打診されても『もう少し現役を続けるよ』と言って日本ハムに移籍していった。」が、成田文男投手の人柄を表している。

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