2020年2月25日火曜日

21年 パシフィックvs中部日本 5回戦


6月22日 (土) 後楽園 

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計 
0 0 0 0 1 0 0 0 0 1 パ軍 15勝14敗2分 0.517 井筒研一 湯浅芳彰 
3 0 0 1 0 0 3 0 X 7 中部 10勝14敗2分 0.417 服部受弘 

勝利投手 服部受弘 1勝0敗
敗戦投手 井筒研一 4勝6敗 

二塁打 (パ)小島 (中)金山、岩本
三塁打 (パ)伊勢川
本塁打 (中)古川清蔵 2号、3号

勝利打点 (中)古川清蔵 2

猛打賞 (中)古川清蔵 2


服部受弘、投手デビュー

 後楽園の第2試合は午後3時22分、島主審の右手が上がりプレイボール。

 中部はキャッチャーからコンバートされた服部受弘がプロ入り初登板、初先発。

 中部は初回、先頭の岩本が四球を選ぶと二盗に成功、金山の送りバントが野選を誘って無死一三塁、ここで古川がレフトポール際にライナーで突き刺さるスリーランホームランを放ち3点を先制する。


 服部はキャッチャー出身らしいスナップの利いた切れのある球でパ軍打線を抑えて3回まで無安打無失点。


 パ軍は4回表、先頭の小島がようやく服部の投球に対応して右中間に二塁打、しかし藤井は左飛、森下はニゴロ、辻井も右飛に倒れて無得点。


 中部は4回裏、先頭の加藤正二がストレートの四球で出塁、木下政文の三ゴロをサード高須清がエラーして無死一二塁、藤原鉄之助の一ゴロで二者進塁、三村の左犠飛でこの回無安打で1点を追加、4-0とする。


 パ軍は5回表、一死後伊勢川が中越えに三塁打、井筒に代わる代打佐竹一雄の中犠飛で1-4とする。


 中部は7回裏、一死後岩本が左中間二塁打、金山が左前にタイムリーを放ち5-1、古川のセンターへの当りがランニングホームランとなって7-1とダメ押し試合を決める。


 服部受弘は3安打5四球3三振の完投でプロ入り初登板を飾る。「日本野球年鑑」によると、「手首を利用するスナップスローは相当なスピードがあって」とのこと。キャッチャーから投手へのコンバートの成功事例としては野口明が代表格。12年春の野口明は沢村にも引けを取らない投球であった。


 中部は6月10日の試合まで全試合で服部が先発マスクを被ってきたが、6月20日からの第9節の2試合は藤原鉄之助がマスクを被った。この間に服部のピッチャーコンバートが決まったのであろう。


 中部投手陣はシーズン当初は森井茂が奮投してきたが、スローボールに対応されてくると勝ち星から遠ざかるようになった。西沢道夫はコントロールが全く無くなって戦前のような子気味の良い投球ができなくなった。「投手・服部」の誕生は、このようなお家の事情によるものであった。服部はこの後勝ち星を112勝まで伸ばして背番号「10」は永久欠番となる。野手だけであったならば、永久欠番は無かったのではないか。この時の中部日本投手陣に駒が揃っていたら、服部のコンバートは検討すらされなかったかもしれない。



*古川の2本目の本塁打は「雑記」欄に「非柵越」と書かれておりランニングホームランであった。


3 件のコメント:

  1. 投手転向の経緯を服部本人の談話が「Dragons50 ファンと歩んだ栄光の半世紀」に遺されています。

    あの日(昭和21年6月10日)は、本塁から中堅へ強い風が吹いていた。場所は後楽園球場。対戦相手は阪急だった。ボクは七番で捕手。確か七回だったか、打者の名前は思い出せないが、ボクの背後にファウルフライを打ち上げた。〝こりゃ、てっきりスタンド入りだナ〟と思って、打球を追わなかった。
    すると、どうだ。打球がグラウンドへ押し戻されて、ネット前にポトリではないか。球審の島秀之助が「ハッちゃんよ、しっかりせんかいな」という声と同時に、ベンチを飛び出した竹内愛一監督が「服部ッ!お前は捕手をクビだ!」ツルの一声というヤツだね。
    そのまま、捕手から投手に転向して、12日後のゲームで完投勝ち。これがプロで初の1勝だった。

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  2. 6月10日の試合ではスコアカードの「天候」欄に「南風強し」と書かれています。
    後楽園球場の方向ですが、私が中学時代には水道橋の駅から三塁側スタンドが見えました。あの角度からすると、ホームからセンター方向が南東向きだったと思います。
    1970年代初頭の後楽園球場と戦前の後楽園球場が同じ方向であったのならば、南風だとバックネット方向に上がったファウルフライはむしろスタンド方向に流されるでしょう。但し、グラウンドの風は「巻いている」ことが多いのも事実です。先週、練習試合の日もライトを守っていて風が前から来たり後ろから来たりしていました。
    そもそも、戦前の後楽園球場と戦後の後楽園球場が同じ方向であったのかどうかも分かりませんが。
    6月10日は風が強かったことだけは間違いありません。

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