3月20日 (月) 後楽園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
2 2 0 0 0 0 0 0 0 4 ライオン 2勝0敗1分 1.000 菊矢吉男
0 0 0 0 0 1 0 0 0 1 名古屋 1勝1敗 0.500 西沢道夫
勝利投手 菊矢吉男 1勝0敗
敗戦投手 西沢道夫 0勝1敗
二塁打 (ラ)坪内、水谷、松岡
ライオン二連勝
ライオンは初回、先頭の坪内道則が左翼線に二塁打、中継に入ったショート芳賀直一の悪送球の間に三塁に進む。岡本利之は二ゴロに倒れるが、水谷則一の遊ゴロで坪内はホームに突進、芳賀のバックホームをかいくぐってホームイン、野選となって1点を先制する。この間に水谷は二塁に進み鬼頭数雄の右翼線ヒットで一死一三塁、玉腰年男が右前にタイムリーを放って2-0とする。
ライオンは2回、松岡甲二、西端利郎が連続四球を選んで無死一二塁、トップに返り坪内中飛、岡本は三邪飛に倒れるが水谷が左中間に二塁打を放って二者還り4-0とする。
名古屋は2回、先頭の加藤正二が四球で歩くが中村三郎の投ゴロは1-4-3と渡ってゲッツー。3回、一死後西沢道夫が右前打、二死後坪内も右前打を放って一二塁、鈴木秀雄の一塁内野安打の間に二走西沢はホームを突くが一塁ベースカバーに入ったピッチャー菊矢吉男からのバックホームにタッチアウト。4回も先頭の大沢清四球に歩くが加藤の三ゴロは5-4-3のゲッツー。
拙攻が続く名古屋は6回、一死後鈴木が四球で出塁、大沢の二ゴロを併殺を焦ったセカンド西端が二塁に悪送球、加藤の遊ゴロをショート松岡がエラーして一死満塁、続く中村の打席でキャッチャー岡本のパスボールが飛び出し1-4とする。
ライオンは3回以降西沢の小さく落ちるボール(当ブログ説ではカッター)を打ちあぐねて6回まで無安打、7回坪内が久々のヒットを左前に放つが無得点、8回は先頭の鬼頭が右前打を放つが玉腰の遊ゴロは6-4-3のゲッツー、9回も一死後松岡が左翼線に二塁打を放つが中野隆雄の中飛に飛び出して8-6と渡ってゲッツー。
名古屋は7回、先頭の西沢が中前打を放つが村瀬一三の二ゴロで二封、トップに返り桝嘉一が中前打を放ち一死一二塁とするが鈴木の右飛にタッチアップからスタートを切った二走村瀬がライト水谷の送球に刺されてゲッツー、8回、9回も無安打に終わる。
菊矢吉男は7安打5四球1三振1失点、自責点0の完投で今季初勝利を飾る。
ライオンは見事な先制攻撃で二連勝。4得点のうち水谷則一が3打点をあげる。水谷は愛知商業時代ピッチャーとして1926、27年の二度甲子園に出場。当時の野球王国愛知県では中京商業、東邦商業、愛知商業がしのぎを削っていた。27年は準決勝で水原茂の高松商業に敗れたが、慶應義塾大学では水原と同僚となる。私事で恐縮ですが、因みに私の大学時代に準硬式野球部で同僚となった奴も同じ神奈川軟式のライバルチームのショートでした。神奈川軟式のショートではNo1と見ていた奴です。慶應時代の水谷はあまり記録には残っていないようです。大和球士著「真説 日本野球史」では昭和6年春季リーグ戦の「八十川ボーク事件」が起きた慶應vs明治戦で慶應の五番ファーストが「水谷」と記載されていますのでこれが水谷則一の可能性があります。
戦後は宇高レッドソックス、熊谷レッドソックスと国民野球連盟(国民リーグ)に参加します。国民リーグは歴史的には埋没させられていますが、調べてみると意外な発見があります。国民リーグは1年で消滅しますので、松竹ロビンスでプロ野球に復帰、引退後は三菱自動車川崎の監督を務めます。当時の記憶のままで不正確かもしれませんが、70年代の川崎代表の座は三菱、いすゞ、東芝がしのぎを削る全国一の激戦区であったと記憶しております(三菱自動車野球部休部時は三菱ふそう野球部として藤沢市に所属していたようですが)。いすゞの二塁手は確かプロに行けば即レギュラー間違いなしと言われていましたが本人はプロには興味を示しませんでした(と伝えられていたと記憶していますが本当のところは御本人にしか与り知らぬところでしょう。)。
三菱自動車川崎からは、内野ならどこでもござれの菅野光夫(日ハム)、私の一番好きな左投手神部年男の後継者村田辰美(近鉄)、遠藤に次ぐ第二エースだった金沢次男(横浜大洋等、ゴルフの名手。夜間にランニング中、痴漢を捕まえて表彰されたことがある。陰で努力するタイプだったのでしょう。)、阪神の中継ぎとして活躍した福家雅明(天理高校時代の同期は鈴木康友。鈴木は甲子園でバックスクリーンにライナーで叩き込み長嶋が惚れこんで巨人入りしますが西武に出されました。因みに私もこのホームランはテレビで見ていました。二度目の西武時代の巨人との日本シリーズで、勝負を決める一打を放って巨人を見返しました。)等、なかなか渋い選手をプロに送り込んでいる。
菅野光夫氏は武相高校の出身。2007年に癌により54歳で亡くなられています。武相高校時代の1年先輩が島野修氏、マスコットで球界に革命を起こしました。武相高校時代の島野投手の剛球は関東ではその名が鳴り響いていました。巨人にドラフト一位指名された時、巨人に入りたがっていた星野仙一が「星と島の間違いじゃないの」と言ったとか言わなかったとか。星野ファンの方には申し訳ありませんが、星野のヘロヘロ球とはレベルが違います。関西の方には島野の2年後に巨人にドラフト二位指名された高松商業の大北投手と同レベルと言えば分かりやすいでしょう。島野氏も2010年、59歳で亡くなられています。
*1972年第1回日米大学野球選手権パンフレットより。上段中央が東門明選手。左隣は「木樽と言えば阿天坊」でも紹介させていただいた大宮工業-慶應の吉沢三塁手。当時2年生の東門選手は4年生の吉沢選手の控えだったようです。運命の第二戦7回の打席も代打で出場して三遊間を破ったものです。
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
2 2 0 0 0 0 0 0 0 4 ライオン 2勝0敗1分 1.000 菊矢吉男
0 0 0 0 0 1 0 0 0 1 名古屋 1勝1敗 0.500 西沢道夫
勝利投手 菊矢吉男 1勝0敗
敗戦投手 西沢道夫 0勝1敗
二塁打 (ラ)坪内、水谷、松岡
ライオン二連勝
ライオンは初回、先頭の坪内道則が左翼線に二塁打、中継に入ったショート芳賀直一の悪送球の間に三塁に進む。岡本利之は二ゴロに倒れるが、水谷則一の遊ゴロで坪内はホームに突進、芳賀のバックホームをかいくぐってホームイン、野選となって1点を先制する。この間に水谷は二塁に進み鬼頭数雄の右翼線ヒットで一死一三塁、玉腰年男が右前にタイムリーを放って2-0とする。
ライオンは2回、松岡甲二、西端利郎が連続四球を選んで無死一二塁、トップに返り坪内中飛、岡本は三邪飛に倒れるが水谷が左中間に二塁打を放って二者還り4-0とする。
名古屋は2回、先頭の加藤正二が四球で歩くが中村三郎の投ゴロは1-4-3と渡ってゲッツー。3回、一死後西沢道夫が右前打、二死後坪内も右前打を放って一二塁、鈴木秀雄の一塁内野安打の間に二走西沢はホームを突くが一塁ベースカバーに入ったピッチャー菊矢吉男からのバックホームにタッチアウト。4回も先頭の大沢清四球に歩くが加藤の三ゴロは5-4-3のゲッツー。
拙攻が続く名古屋は6回、一死後鈴木が四球で出塁、大沢の二ゴロを併殺を焦ったセカンド西端が二塁に悪送球、加藤の遊ゴロをショート松岡がエラーして一死満塁、続く中村の打席でキャッチャー岡本のパスボールが飛び出し1-4とする。
ライオンは3回以降西沢の小さく落ちるボール(当ブログ説ではカッター)を打ちあぐねて6回まで無安打、7回坪内が久々のヒットを左前に放つが無得点、8回は先頭の鬼頭が右前打を放つが玉腰の遊ゴロは6-4-3のゲッツー、9回も一死後松岡が左翼線に二塁打を放つが中野隆雄の中飛に飛び出して8-6と渡ってゲッツー。
名古屋は7回、先頭の西沢が中前打を放つが村瀬一三の二ゴロで二封、トップに返り桝嘉一が中前打を放ち一死一二塁とするが鈴木の右飛にタッチアップからスタートを切った二走村瀬がライト水谷の送球に刺されてゲッツー、8回、9回も無安打に終わる。
菊矢吉男は7安打5四球1三振1失点、自責点0の完投で今季初勝利を飾る。
ライオンは見事な先制攻撃で二連勝。4得点のうち水谷則一が3打点をあげる。水谷は愛知商業時代ピッチャーとして1926、27年の二度甲子園に出場。当時の野球王国愛知県では中京商業、東邦商業、愛知商業がしのぎを削っていた。27年は準決勝で水原茂の高松商業に敗れたが、慶應義塾大学では水原と同僚となる。私事で恐縮ですが、因みに私の大学時代に準硬式野球部で同僚となった奴も同じ神奈川軟式のライバルチームのショートでした。神奈川軟式のショートではNo1と見ていた奴です。慶應時代の水谷はあまり記録には残っていないようです。大和球士著「真説 日本野球史」では昭和6年春季リーグ戦の「八十川ボーク事件」が起きた慶應vs明治戦で慶應の五番ファーストが「水谷」と記載されていますのでこれが水谷則一の可能性があります。
戦後は宇高レッドソックス、熊谷レッドソックスと国民野球連盟(国民リーグ)に参加します。国民リーグは歴史的には埋没させられていますが、調べてみると意外な発見があります。国民リーグは1年で消滅しますので、松竹ロビンスでプロ野球に復帰、引退後は三菱自動車川崎の監督を務めます。当時の記憶のままで不正確かもしれませんが、70年代の川崎代表の座は三菱、いすゞ、東芝がしのぎを削る全国一の激戦区であったと記憶しております(三菱自動車野球部休部時は三菱ふそう野球部として藤沢市に所属していたようですが)。いすゞの二塁手は確かプロに行けば即レギュラー間違いなしと言われていましたが本人はプロには興味を示しませんでした(と伝えられていたと記憶していますが本当のところは御本人にしか与り知らぬところでしょう。)。
三菱自動車川崎からは、内野ならどこでもござれの菅野光夫(日ハム)、私の一番好きな左投手神部年男の後継者村田辰美(近鉄)、遠藤に次ぐ第二エースだった金沢次男(横浜大洋等、ゴルフの名手。夜間にランニング中、痴漢を捕まえて表彰されたことがある。陰で努力するタイプだったのでしょう。)、阪神の中継ぎとして活躍した福家雅明(天理高校時代の同期は鈴木康友。鈴木は甲子園でバックスクリーンにライナーで叩き込み長嶋が惚れこんで巨人入りしますが西武に出されました。因みに私もこのホームランはテレビで見ていました。二度目の西武時代の巨人との日本シリーズで、勝負を決める一打を放って巨人を見返しました。)等、なかなか渋い選手をプロに送り込んでいる。
菅野光夫氏は武相高校の出身。2007年に癌により54歳で亡くなられています。武相高校時代の1年先輩が島野修氏、マスコットで球界に革命を起こしました。武相高校時代の島野投手の剛球は関東ではその名が鳴り響いていました。巨人にドラフト一位指名された時、巨人に入りたがっていた星野仙一が「星と島の間違いじゃないの」と言ったとか言わなかったとか。星野ファンの方には申し訳ありませんが、星野のヘロヘロ球とはレベルが違います。関西の方には島野の2年後に巨人にドラフト二位指名された高松商業の大北投手と同レベルと言えば分かりやすいでしょう。島野氏も2010年、59歳で亡くなられています。
菅野氏の武相高校時代の同期が早稲田大学に進んだ東門明(とうもん あきら)選手です。東門氏は二年春に熾烈を極める早稲田大学内野陣のレギュラー争いに打ち勝ち、第1回日米大学野球選手権に日本代表として選出されました。日米野球第二戦、ヒットで出塁した東門選手は続く藤波(後に中日)の二ゴロで二塁に走ります。打球は4-6-3と渡ってゲッツーとなるはずでしたが、ショートからの一塁送球が東門選手のこめかみを直撃し、脳挫傷のため5日後に亡くなりました。これを機に学生野球ではランナーにもヘルメット着用が義務付けられました。(注;これを機にヘルメット着用が義務づけられたという記述は私の記憶違いによる間違いでした。2011年7月23日付記。)
当時、夕方のラジオで、東門選手の恋人からの手紙が紹介されました。偶然聞いていたのですが、「私の長い髪が好きだと言ってくれました。」というフレーズが強く印象に残っています。*1972年第1回日米大学野球選手権パンフレットより。上段中央が東門明選手。左隣は「木樽と言えば阿天坊」でも紹介させていただいた大宮工業-慶應の吉沢三塁手。当時2年生の東門選手は4年生の吉沢選手の控えだったようです。運命の第二戦7回の打席も代打で出場して三遊間を破ったものです。
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