2014年3月2日日曜日

16年 名古屋vs阪急 7回戦


8月2日 (土) 西宮

1 2 3 4 5 6 7 8 9  計
0 0 0 0 0 0 0 0 0  0 名古屋 21勝26敗 0.447 村松幸雄
0 0 0 0 1 0 0 1 X  2 阪急    27勝20敗 0.574 江田孝 森弘太郎

勝利投手 江田孝     1勝1敗
敗戦投手 村松幸雄 5勝4敗
セーブ  森弘太郎 2

二塁打 (急)中島

勝利打点 フランク山田伝 4


無安打継投

 名古屋は戦場から帰還してきた石丸藤吉が復帰後初スタメンで一番サード。8月1日に聯盟登録されて同日のの巨人戦でデビューした古川清蔵も六番レフトでプロ入り初スタメン。

 阪急は3回、一死一塁からフランク山田伝の遊ゴロが「6-4-3」と渡ってゲッツー。4回も一死満塁から日比野武の遊ゴロが「6-4-3」と渡ってゲッツー。

 阪急は5回、先頭の伊東甚吉が四球を選んで出塁、江田孝が送って一死二塁、トップに返り西村正夫の右前打で一死一三塁、山田が左前に先制タイムリーを放って1-0とする。これが決勝点となって山田は2試合連続で勝利打点を記録した。

 阪急は8回、先頭の上田藤夫の遊ゴロをショート木村進一が一塁に悪送球、一死後森田定雄の投ゴロの間に上田は二進、中島喬が右翼線に二塁打を放って2-0とする。

 阪急先発の江田孝が素晴らしいピッチングを見せた。1回、2回は三者凡退。3回、二死後木村に四球を与えるが石丸藤吉を右飛に打ち取る。4回、5回も三者凡退。6回、二死後石丸藤吉に四球を与えるが石丸の二盗をキャッチャー日比野が刺してスリーアウトチェンジ。7回も三者凡退に抑えた。

 名古屋は8回、先頭の三浦敏一が四球で出塁、古川清蔵が送りバントを決めて一死二塁、石丸進一が四球を選んで一死一二塁、村松幸雄の三ゴロの間に二者進塁して二死二三塁、木村が四球を選んで二死満塁、ここで阪急ベンチは依然として無安打ピッチングを続けている江田に代えて森弘太郎をマウンドに送り込み、石丸藤吉の投ゴロが「1-2」と渡ってスリーアウトチェンジ。

 森は9回の名古屋の攻撃を三者凡退に退けて江田孝-森弘太郎による継投での無安打無得点が完成する。


 6月22日の黒鷲vs名古屋5回戦でも中河美芳-石原繁三による継投での無安打無得点が達成されており今季2回目のこととなったが、3回目の「無安打無得点リレー」が達成されるのは65年後の2006年のこととなります。


 江田孝はプロ入り初勝利を記録した試合で歴史的快投を見せた。7回3分の2まで無安打ピッチングを続けて降板した訳ですが、続投していたらどういう結末を迎えていたのでしょうか。江田は昭和23年から登録名を江田貢一に変えますが31年に江田孝に戻し、32年まで現役を続けて通算97勝を記録することとなります。二リーグ分裂直後の昭和25年には23勝をマークして松竹ロビンスのセ・リーグ初代チャンピオンに貢献しました。


 引退後は近鉄、太平洋クラブ、クラウンライターでピッチングコーチを務めて名コーチと呼ばれることとなりますが、昭和53年クラウンライターライオンズのキャンプ中に急逝しました。東尾はスポニチに掲載された「我が道」に「江田孝投手コーチのことを思うと複雑だった。78年の島原キャンプ中に脳梗塞で亡くなった江田さんは71年まで近鉄のコーチ。啓示さんも教え子だった。」と書いています。鈴木啓示、東尾修という大投手を育てた江田孝の原点が、プロ入り初勝利の無安打ピッチングにありました。









  *江田孝は7回3分の2を投げて無安打5四球4三振無失点の好投を見せプロ入り初勝利をあげる。














        *江田孝-森弘太郎のリレーの前に無安打無得点に抑えられた阪急打線。











*昭和25年11月1日発行「スポーツ毎日」別冊「プロ野球日本選手権試合」号に掲載された「江田貢一」時代の写真。サインは印刷です。「試合数41、勝利数21」となっているのはまだシーズン終了前だからでしょう。江田孝の昭和25年の成績は44試合に登板して23勝8敗です。











        *ピッチングコーチ時代の教え子、鈴木啓示と東尾修の直筆サインカード。








 

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