ちょっとリオの陰に隠れていますが、北海高校の快進撃が止まりません。
夏の大会は1928(昭和3)年の北海中学時代にベスト4進出以来で、決勝進出は初となります。因みに昭和3年の準決勝では平安中学の伊藤次郎にノーヒットノーランをやられて涙を呑みました。伊藤次郎は台湾からの留学生で、当時の平安には台湾からの選手が何人か在籍していました。昭和11年に職業野球が始まるとセネタースに入団して、12年以降の投打にわたる活躍は当ブログでもお伝えしております。
北海の決勝進出と言えば、1963(昭和38)年のセンバツで池永正明を擁する下関商業と対戦した時以来となります。この時は池永の剛腕に屈し、10対0で完敗しました。この大会で入場行進曲に採用されたのが前年に橋幸夫と吉永小百合のデュエットでレコード大賞を獲得して260万枚の大ヒットした「いつでも夢を」でした。
テンポのいい曲なので行進曲にアレンジし易いでしょうね。2003年に採用された平井堅の「大きな古時計」の時は、あれをどうやって行進曲にアレンジするのか心配になったものです(笑)。
センバツの入場行進曲と言えば、1986年の岩崎良美の「青春」が秀逸でしょうね。「タッチ」の第28話以降のエンディングに採用された名曲です。応援歌の定番である「タッチ」の主題歌は、不思議なことにセンバツ入場行進曲に採用されていません。お堅い高野連には、初期の「タッチ」は理解できなかったのでしょうね。当時の保守本流の野球人が、「あれが野球漫画?」と訝っていたのは事実です。
北海は惜しくも敗れてしまいましたね。
返信削除88年前の甲子園では平安の伊藤次郎に12奪三振5四死球のノーヒッターを喰らいましたが、北海の村木義雄投手も6失点ながら9三振をとりました。村木は全3試合26イニングで32個の三振をとっており、これは伊藤の5試合45個に次ぐものです。ちなみに優勝投手の松本商中島治康は5試合28個でした。
当時の松本商業では中島治康よりも矢島粂安、佐藤茂美の方が格上だったようですね。早稲田時代は逆転ランニングホームランの佐藤茂美が上、全日本では主砲の矢島粂安がはるかに高い評価だったと思います。中島治康はプロに入って突然の如く評価が上がったような感じですね。あの、天衣無縫なバッティングは、前近代的な早稲田では評価されていなかったのではないでしょうか。何故か中島の方が年上のようですね。普通に進んでいって上だったのか、学制の違いからなのかがよく分かりません。
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