豊田泰光氏の訃報が伝わっています。
筆者が西鉄ライオンズファンになったのは小学校6年の時、黒い霧事件でみんなが西鉄を苛めているので、「じゃぁ、俺がファンになてやろ~じゃねぇか~」というのがきっかけでした。
最初は河原、基、ポインター、東田、竹之内、東尾などを見ていましたが、しばらくして西鉄に黄金時代があったことを知り、市川市立図書館に行って読売新聞の縮刷版で黄金時代の西鉄ライオンズのことを調べたものです。46年前なのでインターネットはありませんでした(笑)。
豊田のことを知ったのもその頃だったと思います。三原監督が流線型打線の要となる二番に豊田を据えたこともその頃知りました。守備は下手でも打撃とガッツは一流、そんなイメージでしたね。当時の西鉄が「野武士軍団」と言われたのも、豊田の存在が大きかったのではないでしょうか。
ご冥福をお祈りいたします。
*当ブログでは、「野球人」と認定した場合は例外なく「呼び捨て」とさせていただいております。したがって、文中敬称略とさせていただきますのでご了承ください。
*昭和28年の豊田泰光の直筆サイン。現存する豊田のサインでは最も古いものではないでしょうか。
*以下は、当時の熱狂的西鉄ファンが残してくれた西日本新聞のスクラップです。
*昭和33年4月24日の阪急戦。「九回二死後何でもない遊ゴロをファンブルして、そのあと人見の中前テキサスで同点にされているだけに、持ち前のファイトを燃やしていたのだろう。豊田とはそういう男である。」
*昭和32年日本シリーズのオーダー。一番(八)高倉、二番(六)豊田、三番(五)中西、四番(九)大下、五番(八)関口の流線型打線。
*昭和31年ドジャースとの日米野球。全日本でも二番を打っています。
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