5月24日 (日) 後楽園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 計
0 1 1 0 0 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4 名古屋 11勝23敗1分 0.324 西沢道夫
0 0 0 0 0 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4 大洋 21勝12敗2分 0.636 野口二郎
二塁打 (名)古川、芳賀、野口正明、西沢 (大)浅岡、佐藤
本塁打 (名)古川 3号
勝利打点 なし
猛打賞 苅田久徳 1
死闘の果て
名古屋は26回、先頭の古川清蔵はツーツーから三振、吉田猪佐喜はツーナッシングから1球ファウルで粘りボール2つからの6球目を三振、野口正明はワンワンからの3球目を二ゴロ、スリーアウトチェンジかと思われたところ名手苅田久徳がエラー、やはり苅田は衰えたのか。二死一塁となって西沢道夫のカウントはボールツー、野口二郎がストライクを取りに来た球を叩くと右中間を真っ二つ、ツーアウトなので一走野口正明は打った瞬間にスタートを切り一目散にホームを目指す。
ここからは大和球士の名著「真説日本野球史」から抜粋させていただきます。「走者野口(正明=筆者注)は‟勝負あった”とばかり、二塁を走り抜け、三塁を回ってホームへ・・・一方、右翼手浅岡がやっとこの打球を拾いあげた時に、二塁手苅田が外野深くまで走ってきていた。浅岡が投げた、苅田が受けた。ふり向きざま、ホームへ向かって遠投した。ステップと、ホームの方向を確認する手間を省いた文字通りのワンモーション。構えた捕手佐藤のミットにストライク。野口必死のスライディング及ばずアウト。全スタンドが感嘆の唸り声を放った。」
当の苅田の自伝「天才内野手の誕生」によると「ふり返ってチラッと見た私の視界に、三塁を回ってホームへばく進する野口正明の姿がかすめた。ヤッとばかり、振り向きざまのバックホーム。寸前、走者をタッチアウト!久しぶりのボールの感触、体で覚えた淀みないプレーができたことに、私は生き甲斐をそこに見た・・・。」
野口正明のスライディングを「野球界」は「土煙の中憤死」と伝えている。野口二郎はこの回17球、投球数は324球に達した。
大洋は26回裏、浅岡が初球を二ゴロ、野口二郎も初球を中飛、野口明はツーワンからの4球目を一ゴロに倒れてスリーアウトチェンジ。西沢はこの回6球、いまだ288球にすぎない。
ここで再び場内アナウンス。「大リーグの延長26回の世界記録を破りました。」・・・「真説日本野球史」によると「場内騒然。総立ち。跳びはねる客あり。」とのこと。1920年5月1日、ブルックリンvsボストン戦は延長26回1対1の引分けとなり、これが世界記録であった。日米開戦から約半年、鬼畜米英の記録を破って狂喜乱舞したのである。
名古屋は27回、芳賀直一が初球を三ゴロ、トップに返り石丸藤吉がツーワンから三振、木村進一は三球三振。野口二郎はこの回8球、300球を超えて更に凄味を増してきた。
大洋は27回裏、村松長太郎は初球を遊ゴロ、苅田は6球目を中飛、佐藤武夫がワンワンからの3球目を叩くと左中間を真っ二つ、佐藤は二塁に達して二死二塁、このサヨナラのチャンスに織辺由三が初球を叩いてショートオーバーの中前打、二走佐藤武夫が三塁ベースを回ってサヨナラのホームへ・・・向かうはずであったがここで佐藤が倒れた。センター桝嘉一からの送球をショート木村進一が中継してサード芳賀直一に渡り、記録は「8-6-5」でタッチアウト。「野球界」によると木村進一は「嘔吐2回、鎮痛薬を求めるがなく、仁丹を喫んで倒れても止まぬ意気を示す。」・・・西沢はこの回11球。
佐藤武夫は膝に故障を抱えるキャッチャーであった。その佐藤が第一試合に続いて36イニングホームを守り続けてきたのである。佐藤の膝は限界に達していた。「野球界」はこの場面を「佐藤、三塁過ぎて転倒、三塁に帰ろうとするところ桝-木村-芳賀のリレーにアウト」と伝えている。野口二郎の自伝「私の昭和激動の日々」には「われわれは『勝ったぞ』と、英雄佐藤さんを迎えるために、全員ベンチを飛び出した。なんたることぞ、サード・ベースをオーバーランしたところで、佐藤さんがひっくり返っているではないか。しかも、這ってベースへ帰ろうとしているところをタッチされてアウトになってしまった。」と書かれている。
大和球士は「真説日本野球史」に「疲労の局限の佐藤にムチ打つ客は一人もいなかった。笑うものもいなかった。この日の五千人の客は、最高の客であった。」と書いている。佐藤武夫は膝に故障を抱えていたことにより兵役を免れ、戦後は審判として活躍することとなる。
名古屋は28回、桝がツーワンから左邪飛、飯塚誠はワンツーからの4球目をショートに内野安打、「真説日本野球史」には「中前打」と書かれている。古川は初球を打って二ゴロ、飯塚が二封されて二死一塁、吉田はワンワンからの3球目を右飛に倒れてこの回も無得点。野口二郎はこの回12球、投球数は344球に達した。
大洋は28回裏、先頭の中村信一がツーツーからの5球目を二ゴロ、濃人渉はワンストライクからの2球目を中飛、浅岡がワンワンからの3球目を中前打、しかし野口二郎がワンボールからの2球目を遊ゴロ、浅岡が二封されてスリーアウトチェンジ。西沢はこの回12球、投球数は300球を超えて311球に達した。
ここで審判団が協議、午後6時27分、島秀之助主審が「ゲームセット」を宣告した。
野口二郎はこの時29回の投球に備えてマウンドに立っていた。「グラウンドには、夕闇という感じはない。マウンドからスタンドの上の廊下にある四角い窓が見える。その窓に、まだ太陽の光が見えていたように思う。私の感覚ではまだ2、3回やれそうな気がした。」・・・‟鉄腕野口”の真骨頂である。
*延長28回を伝えるスコアカード。B5版に横に印刷されていますので、これを肉眼で解読するのは不可能です。
*この試合の解読には筆者の相棒‟拡大鏡”が大活躍してくれました。
延長28回の後日譚というか余話を。
返信削除1.当時、名古屋軍の合宿所は本郷三国町にあり、本田親喜監督は、選手を合宿から後楽園までの2キロを往復で走らせていましたが、この延長28回終了後も合宿まで走って帰らせたそうです。
2.途中出場ではあるものの、苅田久徳も延長28回に名を連ねました。戦後、苅田は、パ・リーグ審判員になりましたが、昭和28年6月25日、大映スターズ対近鉄パールス9回戦(後楽園)に球審として延長22回を裁いています。
詳細な記録は追っていませんが、選手として審判員として延長20回を上回る試合に出場したのは、恐らく苅田ひとりでしょう。
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昭和17年7月15日発行「野球界」によると苅田久徳は登録停止となります。苅田も自伝に「大洋球団は6月に入って私を『休職』とし、聯盟は『選手登録停止』と発表した。」と書いています。
返信削除すなわち、この試合がセネタース-翼-大洋における苅田の最後の試合となったのです。苅田が復帰するのは黒鷲から名称変更した大和で10月15日となります。