2015年2月10日火曜日

北海道遠征



 さぁ皆さん、いよいよ昭和17年のペナントレースも6月13日より待ちに待った夏季シーズンを迎えます。当ブログのアップが遅れただけとも言えますが(笑)。


 朝日、阪急、名古屋、阪神の4球団は甲子園球場での開幕となりますが、黒鷲、大洋、南海、巨人の4球団は津軽海峡を超えて北海道遠征を敢行します。当時は北海道には飛行機でも電車でもなく、青函連絡船に乗って行きます。青函トンネルが開通するのは1988年ですから46年後のことです。石川さゆりが「津軽海峡冬景色」を熱唱するのは1977年ですから35年後のことです。因みに「津軽海峡冬景色」は「記録の手帳」でお馴染の千葉功さんの十八番で、一緒にカラオケに行った時も熱唱されていました。


 遠征の途中、盛岡で行われたオープン戦で中島治康が球場開闢以来の大ホームランを放ち、「中堅後ろの山の土手っ腹」にぶち込んだと伝えられています。北海道遠征に同行した大和球士は青函連絡船の二等席に乗り込みました。こう書くと選手は一等席かと思われるかもしれませんが、実際は三等席でした。当時のプロ野球選手の地位を物語っています。




 

3 件のコメント:

  1. 晩年の大和球士が、この北海道遠征の同行取材について、『ベースボールマガジン』に書いています。ちょっと長いですが、一部引用させて頂きます。

    ……
    出張することになったが、ボクには1円の前渡し金も出なかった。
    無銭旅行であった。そのころ、航空機はなく、上野-青森-函館-札幌まで、ほぼ36時間を要した。その間、3等車の固い腰かけに横になった。ひどいなんていうものではない。苦痛の極限であった。寝台車に眠ろうとすれば、自腹を切らなければならなかったから、できない相談であった。
    かかるであろう費用のすべては、わが家から持ち出しだったから、とても寝台用まで回りかねた。
    (略)
    ドケチのドケチの都新聞で鍛えられたドケチの精鋭たちは、
    (略)
    北海道大学の先生に、原稿を依頼することを文化部が頼んできたのである。もちろん1円のタクシー代も、1杯のコーヒー代も出さずに、札幌へ着いたら、先生方の住所を探して市電を乗りついで、お住いを訪問しろと、そして、注をつけた。文化部ではタクシー代は出せませんよ、と。
    (略)
    運動部のデスク曰く、
    「文化部の仕事も頼まれたのなら、市電にも多く乗るだろう。宿屋から球場への3日間の市電代もあるから、札幌へ着いたらすぐに市電の回数券を買っておいたほうがいいよ、いくらかでも安くなるからさ」
    勇将のもとに弱卒なしとかや。
    ……
    「ボクの交友録」『ベースボールマガジン』昭和57年11月号

    無銭旅行というのは、記者のフリーパスを使っています。大和氏が勤めていた都新聞が、出張費用(実費後払い)を出さず、鉄道省担当の記者からフリーパスを借りなければ、どうにもならなかったそうです。

    話は変わりますが、それにしても、大和球士は野球殿堂に入れないですね。この人が残した功績は大きいと思うのですが。

    http://baseballgleaning.blog.fc2.com/

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  2. 「二等席」は「野球界」昭和17年7月15日号に書かれています。
    大和球士は戦後選挙に出馬したように山っ気の人物だったようです。当ブログは「真説日本野球史」を参照しながら進めていますが、同著には間違いも多く書かれています。とはいえ、私が野球史に興味を持ったきっかけは中学時代に読んだ「プロ野球三国志」です。読み物的には「真説日本野球史」より面白いですね。
    野球殿堂は特別表彰委員会の選考委員はやったようですが自らは縁がないようです。

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    1. この人はフットワークが軽かったようで、あちらこちらに寄稿してますので、全集のようなものが出たら良いのですがね(笑)。大和球士に限らず、大井廣介、竹中半平、石崎龍らの書籍化されていない雑誌に掲載されたのみの記事を読むと、埋もれたままにしておくのは、惜しいとつくづく思います。

      『プロ野球三国志』は読み物としては面白いです。ただ、創作と思われるような部分は見逃せません(苦笑)。でも、『~三国志』にある茂林寺の特訓の描写は、この人以外では書けないでしょう。全巻のうち一番印象に残っています。

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