5月20日 (火) 後楽園
1 2 3 4 5 6 計
0 0 0 0 0 2 2 阪急
0 0 2 0 0 0 2 阪神
ノーゲーム
この試合を翌日の読売新聞は「“大物言い”再試合」の見出しで「日本野球聯盟特定規則は七回完了しない以前に中止となった時は無効競技となっている」と伝えている。この試合は公式記録としては残されていませんが、スコアカードは残っているので当ブログでは実況中継させていただきます。
試合は午後1時ちょうど、阪急・浅野勝三郎、阪神・若林忠志の先発、主審・池田豊、塁審・倉信夫、島秀之助の三氏審判で開始された。
阪神は3回、宮崎剛が左翼線に二塁打、皆川定之の送りバントが野選を誘い、カイザー田中義雄は一飛に倒れるがジミー堀尾文人が四球を選んで一死満塁、土井垣武の左翼線二塁打で2点を先制する。
阪急は6回、先頭の西村正夫がストレートの四球で出塁、トップに返り黒田健吾も四球を選んで無死一二塁、キャッチャー土井垣からの二塁牽制が悪送球となって一死二三塁、フランク山田伝の中犠飛で1-2、上田藤夫の左翼線ヒットで二死一三塁、井野川利春の左前タイムリーで2-2の同点に追いつく。
6回裏阪神の攻撃は一死一二塁のチャンスを迎えるが無得点、7回表阪急の攻撃で問題のシーンとなる。
阪急は7回、先頭の日比野武が遊ゴロを放ちショート皆川からファースト田中に送られるが足が離れてセーフ、記録は田中のエラーとなって無死一塁、続く伊東甚吉の打席で一走日比野が二盗を試みるがタイミングはアウト、島秀之助塁審はアウトを宣告した。
翌日の読売新聞によると「日比野は二盗を企てたが球は捕-遊と送られ時間的には問題のないアウトと見られ島塁審も直ちにアウトを宣告した。ところが三塁コーチ新富から落球したからセーフであると抗議が出たので島塁審は他の審判と協議して再びアウトを宣告したのだが阪急はこの裁断に服せず更に抗議を続けると島審判は一方的の説明を取り上げてセーフと宣告を変えた。今度は阪神満足せず逆に猛烈な抗議となった。・・・一度は日比野を一塁に戻して再開の提案(これは言語道断なり)となったが双方満足せず一時間余を空費して決せず遂に無効試合となり・・・」
当の島秀之助著「白球とともに生きて ある審判員の野球昭和史」によると「・・・私には皆川が触球したあとのことは見えなかった。そこで私は、皆川に『君、落としたのか?』と訊いた。皆川は、私が法政時代にコーチに行った桐生中の出身だった。いわば教師と教え子の間柄だった。皆川は、そんな私に正直に「落としました」と答えた。私は、この年が審判員になって4年目だが、審判員としての経験という点では、まだまだの域を出ていなかった。皆川の答えを聞くと、すぐ私は『セーフ』と判定をくつがえした。自分の目で確認しなかったのに選手の声で判定をくつがえしたのは、まったく浅はかというほかなかった。」
三人制審判の場合、走者一塁の時は三塁塁審が一塁と二塁を結ぶ線上の外野寄り、遊撃手の左側に位置する。日比野が滑り込んできて皆川と重なり合って倒れた時落球したのが事の真相のようである。後方に位置していた島秀之助には見えず、三塁コーチャーズボックスの新富卯三郎からは見えたのでしょう。
島秀之助は翌日聯盟を訪れて河野安通志事務長に辞任を申し出た。しかし河野は「君はまだ4年目だ。君の先輩たちも同じような失敗を乗り越えてきたのだ。やめることはない。君の不手際に対してはペナルティーを課すが、これからもしっかりやってもらいたい」と島の辞任を認めなかった。島秀之助は後に名審判となり、野球殿堂入りする。
*無効試合となった阪急vs阪神戦を伝える貴重なスコアカード。
*問題のシーン
*「雑記」欄
島秀之助の審判生活における苦い実体験の一つですね。
返信削除野球規則9.02(C)に、
・・・審判員が、その裁定に対してアピールを受けた場合は、最終の裁定を下すにあたって、他の審判員の意見を求めることはできる。裁定を下した審判員から相談を受けた場合を除いて、審判員は、他の審判員の裁定に対して、批評を加えたり、変更を求めたり、異議を唱えたりすることは許されない・・・
とあります。
阪急軍阪神軍双方から抗議を受けて困り果てた島は球審・池田豊審判部長、塁審・倉信雄に相談しますが、
「困りました。そこで野球規則通り、一塁塁審と主審を呼んで、あなた方はどうみたか、と聞いてみた。ところが"われわれは遠くにいたからわからない"というツレない返事です。こっちはワラもつかみたい心境なのに、ああ、なんということだ…とガッカリしましてね」(1980年ベースボールマガジン11月号「プロ野球の謎とロマン」)
審判員の誤審でノーゲームになった事例はこれが唯一かもしれませんね。フォーフィッテッドゲームはありますが。
http://eiji1917.blog62.fc2.com/
皆川が落球したのは本人が言ったとのことですから事実なのでしょう。三塁コーチャーズボックスの新富卯三郎にも見えたのでしょう。問題は、タッチ後にグラブからボールがこぼれたのか、一連のプレーでの落球だったのかです。前者であれば最初の判定通りアウト、後者であればセーフとなります。1969年の日本シリーズでも土井の足がベースにタッチしたか否かが問題なのではなく、岡村のタッチが土井の足がベースに着くより早かったのか遅かったのかが問題のはずです。
削除同点の7回無死一塁で日比野武が走ったのも不思議です。日比野は昭和14年こそ5盗塁を記録していますが15~17年は200試合以上に出場して1盗塁、昭和16年は盗塁ゼロで、佐藤武夫と並ぶ“鈍足王”でした。井野川戦法からすると次打者八番・伊東甚吉の送りバントが定石のはずです。