ルノワールの代表作とも言える「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」はオルセー美術館に飾られていますが、こちらは131センチ×175センチの大作なのでルノワールがダンス場で写生した小さな作品を基にアトリエで描いたと言われています。その小さな方を1990年のバブル真っ盛りのオークションで落札したのが大昭和製紙の斎藤了英でした。7,800万ドルと言われており、当時は1ドル130円程度でしたので100億円を超えます。同時にほぼ同額でゴッホの「医師ガシェの肖像」も落札し、「棺桶まで持っていく」と豪語して顰蹙を買ったことで有名です。
大昭和製紙は昭和28年の都市対抗野球で優勝しましたが、この時の監督が斎藤了英であったことはほとんど知られていない歴史的事実です。「都市対抗野球大会60年史」には斎藤了英のコメントが寄せられています。
「私共の大昭和製紙野球部の本格的活動は戦後間もなくであります。・・・すさんだ世の中でした。そういうなかで大昭和が野球部を創設したのは、社員の団結を高め、士気の昂揚を図るとともに、大昭和製紙の心意気を内外に示すのも大きな目的だったのです。・・・私が監督となり、こうした選手たちとともにチームの強化に心血を注いだのです。」
「そして今日の大昭和製紙野球部があるのは、中部地区、とりわけ静岡県下の都市対抗予選で切磋琢磨しあう日本軽金属さん、河合楽器さん、日本楽器さんの大きな存在と恩恵も忘れられないところであります。」
実際、昭和28年には一人の選手を日本軽金属から補強して五番ファーストに据えました。この五番ファーストこそ、何と高橋敏なのです。当ブログをお読みいただいている方には昭和14年に阪急で17勝9完封の記録を残した高橋敏の名前を良く覚えていらっしゃるかと思います。高橋敏は戦争の時代を生き抜き、昭和21年には阪急に在籍してしていますがピッチャーとしての登板はなく、野手として出場しています。開幕戦では四番ライトで出場、序盤戦は四番を務めていましたが26打数4安打がプロでの最後の成績となりました。
ところがどっこい、翌年から社会人野球の鐘紡高砂に所属して昭和22年の都市対抗野球では四番センターとして鐘紡高砂を決勝まで導きます。この大会では17打数7安打を記録して準々決勝ではセンター右にサヨナラ打、敗れた決勝戦ではレフトスタンドにホームランを叩き込んでいます。その後も鐘淵化学の補強選手として昭和25年、26年の都市対抗にも出場します。当時は一チーム3人までプロ野球経験選手を出場させることができたのです。昭和27年から日本軽金属(富士市)に移ったようです。大昭和製紙は吉原市代表ですが、吉原市と富士市は1966年に合併して現・富士市となっています。
昭和28年の都市対抗野球では日本軽金属からの補強選手として2回戦で3打数1安打2打点、準決勝では8回に試合を決めるホームランを放つなどの活躍を見せました。大会後、ハワイ遠征全日本チームが発表されましたが、大半を優勝した大昭和製紙のメンバーが占める中、日本軽金属の高橋敏も代表メンバーに選出されています。大谷を「二刀流」などと騒いでいる今日この頃ではありますが、高橋敏こそ生粋の「二刀流」ではないでしょうか。
本日は文化の日の代休日ということで、芸術ネタで攻めてみました。「医師ガシェの肖像」は素人には難解かもしれませんが、「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(Bal du moulin de la Galette)は誰が見ても心地よい作品です。「Bal du moulin de la Galette」を高橋敏ネタの前振りに利用されるとは、ピエール=オーギュスト・ルノワールも天国で苦笑しているのではないでしょうか(笑)。高橋敏の球歴が阪急時代だけであったと勘違いされている方が多くいらっしゃるようですが、当ブログはしつこく球歴を追って行きます。
注)当ブログルールに従い、野球人・斎藤了英は敬称略とさせていただいておりますのでご了承ください。
*ルノワール作「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」。「週刊グレート・アーティスト」より転載させていただきました。
*大昭和製紙野球部監督・斎藤了英。「都市対抗野球大会60年史」より転載させていただきました。
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