2013年11月24日日曜日

石原事件



 昨日のブログでは石原繁三の完封勝利を「プロ入り初勝利」とお伝えしていましたが石原は昭和11年に6勝を記録していますので「今季初勝利」の間違いでした。お詫びして訂正させていただきます。


 「石原事件」は岩手県立福岡高等学校 野球部創部100周年記念誌「陣場台熱球録」に詳しく掲載されています。


 昭和6年4月に川越中学から遠野中学に転校してきた石原繁三は野球強豪校ではなかった遠野では瞬く間にエースとなり、夏の岩手県大会準決勝で福岡中学と対戦することとなります。ところが試合開始前に福岡側から「転校間もない石原投手は出場資格がない」と抗議され、紛糾すること2時間、石原繁三の出場は認められず福岡が遠野を20対0で破ります。昭和6年当時は中等学校野球大会の人気が沸騰し、各地で選手の引き抜きが横行していました。石原繁三は父親の転勤の関係で成田中学-川越中学-遠野中学と転校しただけですが福岡中学の抗議が認められたのです。この試合に福岡中学で出場していた小田野柏は「石原投手が出てきたならば試合はどうなっていたかわからない。」とコメントしています。遠野中学は翌昭和7年に石原を擁して第18回全国中等学校優勝野球大会に出場することとなります。



 昨日は石原繁三が「遠野中学」出身と書かれている「連盟広報」をご紹介しましたが、昭和11年3月11日付け「読売新聞」に掲載されている「日本職業野球リーグ七チームのメムバー発表」には石原繁三の出身は「鉄道省」と記載されています。


 鉄道省から昭和11年にセネタース入りした石原はこの年6勝をあげて応召、昭和15年にセネタースから球団名が変わった翼でプロ野球の世界に復帰します。昭和16年4月3日付け読売新聞に掲載されている「日本野球の新陣容」では翼と金鯱が合併した大洋に所属していますが、1か月ほどの間に黒鷲に移籍してきたようです。剛球投手として鳴らし、昭和17年には20勝を記録することとなります。打線の援護があれば30勝投手になっていた可能性があると思いますがいかがでしょうか?


 平壌第一陸軍病院で戦病死したと伝えられている青柴憲一は「鎮魂の碑」に名前を連ねています。戦場から引き揚げてきて三日後に病死した(場所は別府説と下関説があるようです)と伝えられている石原繁三の名前が「鎮魂の碑」に見られないのはどういう理由からでしょうか。








 

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