2015年6月28日日曜日

北原昇離脱



 南海の好守の要、北原昇は8月5日の朝日戦3回表の攻撃で、二死から内野安打で出塁すると二盗を試み失敗したが、この際負傷して3回裏の守りにつくことはなく途中退場した。この後、北原がグラウンドに立つことは永遠になかったのである。


 開幕から三番セカンドで65試合に出場してきた北原は、この日の負傷により欠場が続く。北原の欠場は胸の病が悪化したからというのがこれまでの定説であったが、そのきっかけとなったのはこの負傷途中退場であった。胸の病の悪化が重なり、応召のためグラウンドに立つこともなく、戦地にて戦病死したと伝えられているが真相は定かではない。


 戦前の二塁手と言えば苅田久徳、千葉茂となるのがこれまでの定説であったが、当ブログの読者のレベルであれば、北原昇が苅田、千葉に近い存在であったことがご理解いただけるのではないでしょうか。これまで検証してきたように、実戦的な選手であり、好走守に洗練されたプレーを見せる玄人好みの選手である。


 「Wikipedia」に書かれている内容はほとんどが事実と乖離又は誤認しているので、簡単に経歴を紹介します。松本商業時代は昭和8年の春と夏の甲子園に出場し、いずれも初戦で敗退しています。センバツでは1回戦負けながら「優秀選手賞」に選ばれています。立教大学で活躍した後は満州に渡り、昭和15年の都市対抗に田部と共に出場して決勝に進出して準優勝、昭和16年の都市対抗が中止となったことが同年秋に南海入りした原因でしょう。北原のプロ入りはプロを希望したと言うより、野球ができる環境を求めた末の行動でしょう。自身の胸の病もあり、体が動くうちは野球を続ける決心であったと考えられます。プロ入り後はすぐにレギュラーとして起用され、10月23日から11月16日の14試合に出場して51打数17安打で3割3分3厘、これが驚異的な成績であることはお伝えしてきたとおりです。昭和17年は開幕から不動の三番セカンドとして全試合に出場してきましたが、無念のリタイアとなり、グラウンドを後にすることとなったのです。



*3回表の攻撃、二死後内野安打で出塁すると二盗を試みるが失敗したシーン。





*「雑記」欄には「北原負傷」と書かれている。




*「備考欄」には「北原二盗のとき負傷」と書かれている。





*昭和8年センバツ出場時のメンバー表(選抜高等学校野球大会50年史」より)




*センバツでは1回戦で敗退ながら「優秀選手賞」を獲得した。


 



*昭和8年夏の甲子園は初戦敗退。




*昭和15年の都市対抗は大連実業から出場して決勝に進出。




 

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