今年の7月1日に、2013年5月25日付けブログ「15年 翼vs黒鷲 12回戦」に櫻井孝昭さんから「中村信一選手は「プロ野球人名事典」には法政大学中退と書いてますが、普通に卒業したのでは?とも思ってます」とのコメントをいただきました。
参考になりそうな情報を見つけましたのでご報告いたします。
昭和11年2月21日付け読売新聞に「景浦、立教を退学」の見出しで景浦将が立教大学を中退してタイガース入りする記事が掲載されています。この記事の中で「東京セネタース軍入りした中村、綿貫、高橋、山崎同様中途退学して職業団の傘下に馳せ参じたものである」と書かれています。この「中村」が「中村信一」の可能性が高い。昭和11年のセネタースには熊本工業出身の「中村民雄」も在籍していますが、昭和11年3月11日付け読売新聞に掲載されている「メンバー表」にはまだ「中村民雄」の名前は見られず「中村信一」は掲載されています。
したがって、中村信一は法政大学を、綿貫惣司は立教大学を、高橋輝彦は専修大学を、山崎文一は日本大学を、それぞれ中退してセネータース入りしたものと考えられます。
プロではセカンドをやることを決意していた苅田久徳は、ショート中村信一、サード高橋輝彦、ファースト綿貫惣司の3人を大学を中退させてセネタースに引っ張り、「百万ドル内野」を形成したようです。
*「15年 翼vs黒鷲 12回戦」のコメント欄にも返信しています。
http://shokuyakyu.blogspot.jp/2013/05/vs_25.html?showComment=1403882434888#c498028822656676679
うわー、ありがとうございます。最近、よく図書館で読売新聞を見てるのに、気づきませんでした、中村民雄選手は、「日本野球十二年史」によると、「11月3日加入」なので、中村信一選手のことでしょうね。一番、「なぜ中退?」と思えた要素が、中村信一選手は、昭和7年に法政大学で新人戦に出ているという点です。7,8,9,10年でちょうど卒業だったのでは?と思いました。ところが、最近、「当時(鶴岡一人入団の頃」の法政大在学期間は5年だった」というような野球本を見たので、やはり中退で間違いないのだなと・・・。ただ、千葉茂氏の「プロ野球人別帳」には、「監督と折り合いが悪く中退」と苅田久徳氏が語ったように書かれてます。職業野球入りするから中退だったのか、元々中退だったのか、実は中村の方が先に東京セネタース入団が決まってた線も考えてました。とか思ううちに、例え中村信一が4年で卒業だったのだとしても、退学しないと職業野球入りできなかったでは?とも思えてきました。現在のようにプロ野球入りが決まっていても卒業出来るのが当たり前の時代ではなく、法政大学だと、幻の巨人軍選手の三森、タイガースで職業野球除名された瀧野(除名されたのに、戦後、セリーグ審判になっている)と伊藤、のちに大学から「卒業前に職業野球の試合に出るのは許さない」と言われた鶴岡一人の例が有りますので。 私のブログでは、解らないことを「公開調査」という形にしました。もしご存知の点が有りましたら、ご教示いただけますと大変幸いに存じます。この度は、気になる点をお教えいただき、誠にありがとうございました。失礼いたします。
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削除私も当時の学制について詳しくはありませんが、大学在籍年数は4年とは限定できません。予科、本科があり、入り方によっても在籍期間が変わるようです。因みに昭和11年2月21日付け読売新聞の記事によると景浦将はこの時「予科3年」とのことです。Wikipediaによると予科にも2年制と3年制が混在しているようです。
削除いずれにせよ、当時の資料を丹念に調べること、これ以外に解決策はありません。
横から失礼いたします。
削除中退組の実質最後の六大学リーグ戦となった昭和10(1935)年秋季戦前に発行された『六大学野球選手名鑑』(同年10月野球界附録)によると、
景浦 將 予商3年
中村信一 経済2年
坪内道則 予商3年
綿貫惣司 予商3年
野口 明 予科1年
とありました。
予科、本科については詳しくありませんが、野球を続けるために予科を転々とした選手がいたという話があったような気がします。