4月30日 (火) 藤井寺
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 1 0 1 0 0 0 0 2 グ軍 1勝3敗 0.250 松川博爾 長谷川治 野口渉
0 1 0 4 0 0 0 0 X 5 阪急 3勝1敗 0.750 野口二郎
勝利投手 野口二郎 1勝0敗
敗戦投手 松川博爾 0勝2敗
二塁打 (急)野口二郎、上田
勝利打点 (急)尾西信一 1
上田藤夫、満塁走者一掃二塁打
藤井寺の第二試合は午後2時50分、金政卯一主審の右手が上がりプレイボール。
グレートリングの先発は開幕投手を務めた松川博爾。阪急は戦後初登板となる野口二郎で応戦する。
阪急は2回、先頭の高橋敏が死球を受けて出塁、野口明が中前打で続いて無死一二塁、三木久一の三ゴロをサード宮崎仁郎がベースを踏んで一塁に送球し「5C-3」のダブルプレー、二死二塁となって野口二郎が左中間を破る二塁打、二走野口兄が還って1点を先制する。戦争が終わっても強力兄弟コンビは健在。
グ軍は3回、先頭の松川が左前打で出塁、筒井敬三が送って一死二塁、トップに返り安井亀和の遊ゴロをショート尾西信一が一塁に悪送球、二走松川は動けず一死一二塁、宮崎が四球を選んで一死満塁、堀井数男の左犠飛で1-1の同点に追い付く。なお、「犠牲フライ」については、戦後になっても1953年までは記録されることはなく、スコアカードの記載から当ブログが独自にお伝えしていますのでご了承ください。
阪急は4回、先頭の野口明の当りは二ゴロ、これをセカンド安井がエラー、三木が四球を選んで無死一二塁、野口二郎は右飛に倒れ、坂田清春はストレートの四球で一死満塁、尾西の遊ゴロ併殺崩れの間に三走野口明が還って2-1と勝越し、トップに返り山田伝が四球を選んで二死満塁、ここで戦前からの強者上田藤夫が左中間に走者一掃の二塁打を放って5-1と大きくリードする。グ軍は先発の松川を下げて、二番手として長谷川治をマウンドに送る。
グ軍は5回、先頭の筒井が左前打で出塁、トップに返り安井もレフトにヒットを放ち無死一二塁、宮崎の三ゴロをサード三木がベースを踏んで二走筒井は三封、堀井が四球を選んで一死満塁、山本一人の遊ゴロ併殺崩れの間に三走安井が還って2-5とする。
グ軍は7回から三番手として野口四兄弟の四男・野口渉がマウンドに上がる。
戦後初登板となった野口二郎は6回以降無失点。7回には安井の内野安打と堀井のヒットで一死一二塁のピンチを迎えるが、山本一人監督を投ゴロ併殺に打ち取る。9回、先頭の野口渉の遊ゴロをショート上田が一塁に悪送球して無死二塁とするが、代走の大橋一郎を牽制で刺してピンチの芽を摘み、5安打5四球5三振2失点の完投で戦後初勝利を飾る。
この試合では野口四兄弟のうち3人がグラウンドに立ったが、三男昇は消息を絶ったままである。既に「戦死公報」が届いているかは不明。終戦直後の野球記事には、「沢村もどうやら戦死したようだ」などの記載も認められ、混乱した状況がうかがえる。
勝利打点は併殺崩れで打点が付いた尾西に記録されるが、「真の殊勲打」が試合を決める満塁走者一掃の二塁打を放った上田藤夫であることは言うまでもない。
上田はジミー堀尾に誘われてハワイから阪急に入団した日系二世で、昭和12年春から23年まで、戦前戦後を通じてプロ野球選手として活躍する。昭和13年9月24日の名古屋戦でショートとして1試合11補殺(「Wikipedia」には12補殺と書かれているが、スコアカードで確認すると11補殺)、昭和15年11月6日の巨人戦ではショートの守備で1試合6併殺(こちらはスコアカードどおり)を記録した。現役引退後は審判に転じ、審判の公正を期すため、試合後、帰りの電車で選手と一緒にならないようにわざわざ一電車遅らせて帰宅(永田陽一著「ベースボールの社会史 ジミー堀尾と日米野球」より)する実直な人物として知られている。
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