2014年10月8日水曜日

四番・松尾五郎





 松尾五郎が四番に入って勝利打点を記録した試合をお伝えいたしました。


 松尾は阪神の第14代四番になります。佐賀商業から大連実業に進んだ松尾五郎は阪神の初代四番・松木謙治郎に誘われて阪神入りしました。


 松木謙治郎著「タイガースの生いたち」によると松木が昭和8年に大連実業に入った年に松尾も佐賀商業から大連実業に入ってきたとのことで、7歳年上の松木としては可愛い同期といったところでしょうか。昭和15年の満州遠征の際、松木が松尾を勧誘して阪神入りしたとのことです。松木は同著に「戦後臼杵炭鉱チームで活躍し、その後も臼杵にいるが、頭の毛はだいぶ薄くなってきて、私に似てきたと風のうわさで聞いている。」と楽しそうに書いているように、相当松尾を可愛がっていたようだ。



 「Wikipedia」には、「松木謙治郎が昭和8年の都市対抗に名古屋鉄道局で出場した」と書かれています(2014年10月8日現在)が、毎日新聞社刊行「都市対抗野球大会60年史」によると松木が名古屋鉄道局で出場したのは昭和7年のことで、翌昭和8年には大連実業で松尾五郎と共に松木謙治郎が都市対抗に出場していることが確認できますので、「Wikipedia」の記述は間違いであることが分かります。


 松尾五郎が阪神在籍の3年間で四番を打ったのは、昭和16年7月5日と昭和17年4月13日の2度だけです。次に松尾五郎が四番打者として檜舞台に登場するのは昭和27年、佐賀大町町代表として臼杵炭鉱で都市対抗に出場して京都倶楽部と対戦した試合で四番を務めた時まで待たなければなりません。




*松木謙治郎は昭和7年の都市対抗に名古屋市代表として名古屋鉄道局から出場して四番を務めている。写真は何れも「都市対抗野球大会60年史」より。







*松木謙治郎は昭和8年に大連実業団に移り松尾五郎と共に都市対抗に出場している。









*松尾五郎は昭和27年の都市対抗に佐賀大町町代表として臼杵炭鉱から出場して四番を務めている。







 

2 件のコメント:

  1. 昭和8年の大連実業団はなかなかの古手が揃っていますね。
    1番・中川金三(明大 パ記録員)、2番・野原五郎(宝塚運動協会)、4番・吉田要(法大 野球評論家)、7番・岩瀬五郎(旧姓谷口 早大)、8番・安藤勝・忍(東急監督)の安藤兄弟、9番・武井正清(セ審判員)等々。
    この面子のなかで、佐賀商を出てすぐ6番を打っていた松尾五郎は、並の選手ではなかったことは明らかでしょう。松尾は戦後の二リーグ分立前後にプロに引っ張られてもおかしくない経歴なのですが……。

    ちなみに、松木謙治郎が名鉄入りしたのは、幼少時に松木家に養子縁組しており、義父が名鉄に勤めていた義理からだそうです。

    http://baseballgleaning.blog.fc2.com/

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  2. 名鉄で松木と同僚となった武田可一は昭和9年全日本にも選ばれました。昭和5年都市対抗で名鉄が前年に続いて準優勝した時も清田重雄とのダブルエースとして活躍、戦後は昭和20年代から30年代にかけて名鉄の監督として都市対抗に出場しています。

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