実況のとおり、石田光彦最後の投球は4本塁打を許すというものであった。
石田は9月5日のパ軍戦では3回から登板して7イニングを7安打4四球2三振無失点で勝利投手。9月6日のセ軍戦でも3回から登板して7イニングを8安打2四球6三振2失点で勝利投手、この試合では好調飯島を4打席無安打2三振、大下を4打席無安打2三振に抑え、最終回は飯島、大下を連続三振で締めくくっているのである。
それが9月8日の最後の登板で被本塁打4本。これは実力ではなく敗退行為であったことは間違いない。
石田が野球賭博に引きずり込まれたのは戦前からのこと。まだ八百長に加担していなかった昭和12年に最初のノーヒットノーラン、やくざ共が追いかけてこなかったであろう昭和15年の満州シリーズで2度目のノーヒットノーラン。真面目に投げた時の切れ味抜群のピッチングを、当ブログは全て伝えてきた。
戦前から関西を中心に野球賭博が行われており、その予想紙も発行されていたことはよく知られている事実である。戦後復活初年度には野球賭博も復活したことが、BBM発行「藤本定義自伝」や「鶴岡一人自伝」にも書かれている。
このような状況で、戦後野球は隆盛に向かって走り始め、それを肌で感じた石田は八百長から足を洗いたかったと考えられる。9月5日は打撃でも3打数1安打1打点、6日は勝負を決める満塁走者一掃三塁打、8日の最終戦でも2点タイムリーを放ち2打数1安打2打点。自らの実力を見せつけるかのようなバッティングであった。
この日のあからさまな被本塁打4本は、胴元への反抗と見られたようだ。球団としてももう見逃すことはできないと判断したのであろうか。石田はこの後プロ野球界を去ることとなる。
2年後の都市対抗野球、前橋市代表の山藤商店は1年限りで廃業となった国民リーグから流れてきた元プロ野球選手倉本信護がプレイングマネージャーであり、倉本と行動を共にしてきた元プロ野球選手田部輝男も出場している。そして、「都市対抗野球60年史」に記載されているテーブルスコアには「投手・石田」の名が認められる。この「石田」が石田光彦であったと言われている。生粋の「野球人」石田光彦は、プロ野球界を追われても、野球の道を邁進していたのである。
*石田光彦最後の背信投球
*昭和23年都市対抗野球、前橋市代表・山藤商店の先発投手は「石田」であった。(「都市対抗野球60年史」より)
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