2023年7月15日土曜日

田部よ見たか!

 昭和22年4月25日、苅田久徳が戦後初出場した。

 第3打席までポップフライの連続でブランクを感じさせたが、同点で迎えた10回裏に四球で出塁、一死一二塁の二塁ランナーとなって横沢七郎の投ゴロは「1-6-3」と渡ってダブルプレー、ゲームは延長11回に進むと思われた。

 ところが二塁ベースカバーから一塁転送の朝井昇のベースタッチが甘く、杉村塁審は二塁アウトをコールしなかったのである。

 三塁ベースに到着していた二走苅田はこれを背中で察知し、三塁を回ってホームを駆け抜け東急がサヨナラ勝ちとなった。

 実況でもお伝えしたとおり、「Wikipedia」には「田部は足で走るが、苅田は頭で走る」と書かれている。「田部」とは田部武雄のことであることは当ブログの読者であれば「当り前田のクラッカー」でしょう(笑)。

 苅田と田部は昭和3年に東京六大学に進み、「明治の田部」、「法政の苅田」は好ライバルであった。田部の進学には色々と経緯があり、実年齢では田部が4年上となるが、大学卒業後は巨人軍の第1回アメリカ遠征でも同行し、共に巨人軍の結成には参加しなかったという経歴を持つ。

 苅田は田部を終生のライバルと認識していたと考えられる。苅田の自伝「天才内野手の誕生」あとがきには「田部のヤツ、戦死なんかして、あのすばしっこいのが沖縄で散るなんて」と書かれている。

 実況でお伝えした走塁でサヨナラのホームを踏んだ苅田は、心の中で「田部よ見たか!」と叫んでいたであろう。


*苅田の走塁が事実であることの証拠:「雑記」欄の記述「苅田二塁にある時、横沢の投ゴロで併殺されたと思われたが遊撃手の踏み方悪く杉村塁審アウトを宣告せず、その間苅田を還す」 


0 件のコメント:

コメントを投稿