4月3日 (土) 後楽園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 朝日 0勝1敗 0.000 林安夫
0 0 0 0 0 1 0 0 X 1 西鉄 1勝0敗 1.000 野口二郎
勝利投手 野口二郎 1勝0敗
敗戦投手 林安夫 0勝1敗
二塁打 (西)祖父江、中村民雄
勝利打点 中村民雄 1
野口二郎、2安打無四球完封で開幕を飾る
昭和18年ペナントレースは4月3日、青空が見える後楽園球場と小雨模様の西宮球場で開幕した。
朝日の先発は林安夫、大洋から球団名が変更した西鉄の先発は野口二郎。昭和17年10月に大量応召があったことから、昭和18年の開幕時点では出場メンバーに大きな変化は見られない。
両軍3回まで三者凡退を続ける。
朝日は4回、先頭の坪内道則が中前打で出塁、酒沢政夫が送りバントを決めて一死二塁、しかし早川平一は三振、スリーストライク目に坪内の三盗も失敗して三振ゲッツー。
西鉄は4回裏二死後、復帰初戦となる黒沢俊夫が二遊間に内野安打、しかし中村民雄は遊飛に倒れてスリーアウトチェンジ。
西鉄は5回、二死後富松信彦が四球を選んで出塁、祖父江東一郎がレフト線に二塁打を放って二死二三塁、しかし今季松本商業から入団した村瀬秀孝は投ゴロに倒れて無得点。
西鉄は6回、先頭の中村信一が二遊間に内野安打、濃人渉の三ゴロでランナーが入れ替わり、黒沢の遊ゴロの間に濃人は二進、ここで四番・中村民雄が右中間に二塁打を放ち1点を先制、これが決勝点となった。
野口二郎は7回に酒沢に左前打を打たれたが、許したヒットは4回の坪内と2本のみ、無四球9三振の快投を見せて今季初勝利を飾った。西鉄はノーエラーの好守備を見せて、野口は7個の三者凡退を記録した。
昭和18年の「野球界」に「登録復活 黒沢(大洋→西鉄)」の記事が見られる。昭和16年7月以降消息が不明であった黒澤俊夫が2度目の応召から復帰した可能性が高い。
黒沢は、昭和16年7月に2度目の召集を受け、満州に渡っています。昭和18年1月に除隊となり、昭和20年4月に3度目の召集。終戦は済州島で迎えたそうです。
返信削除昭和18年に入ると、ついに『野球界』から『相撲と野球』へ改題し、プロ野球はもちろん六大学のグラビアページすらもなくなり、翌昭和19年には野球の二文字は消えて『相撲界』に。記事の内容は野球も相撲も戦意高揚が目的のようなものです。
黒沢が出場するのは昭和11・12年、15・16年、18・19年、21・22年。3度の応召の歴史です。
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