2015年3月14日土曜日

石原繁三と小田野柏



 昭和17年6月27日、石原繁三はターニングポイントとなる投球で阪急を3安打完封に抑えます。その阪急に小田野柏が復帰してきました。


 「野球界」昭和17年7月15日号に「登録復活(帰還)」として「小田野柏(阪急)」と書かれているのです。事実、昭和17年7月11日に甲子園球場で行われる阪神戦で小田野柏は6回に代走として登場し、昭和13年以来4年ぶりに戦場から帰還してグラウンドに立つこととなり、後半戦は外野のレギュラーとして活躍することとなります。


 石原繁三は岩手県の遠野中学、小田野柏も岩手県の福岡中学出身で、岩手県野球史にその名を残す二人についての文献としては、岩手県立福岡高等学校 野球部創部100周年記念誌として同校OB会が発行した「陣場台熱球録」の右に出るものはありません。


 石原繁三は千葉県成田市出身で、埼玉県川越中学から父親の仕事の関係で昭和6年4月、岩手県遠野中学に転向して来ました。関東でも指折りの剛速球投手として知られていた石原が入った遠野中学野球部は弱小チームから甲子園を狙えるチームへと変貌を遂げたのです。昭和6年夏の岩手県大会準決勝で小田野柏が在籍していた福岡中学と遠野中学が対戦します。福岡中学の中津川コーチは、「転校間もない石原繁三投手に出場資格はない」と訴え、石原が投げることができずに遠野中学は大敗します。岩手県野球史に残る「石原事件」の背景には、当時は野球熱が沸騰して中等野球界の選手を引き抜くブローカーが暗躍しており、父親の仕事の都合による石原の転校も快く思われなかったという事情があるようです。


 「陣場台熱球録」にはこの時の小田野柏のコメントが残されており「石原投手が出てきたならば試合はどうなっていたかわからない。・・・後年プロ野球で見た石原投手は球も速く、弱小球団の中で孤軍奮闘という感じだった。プロでも打線がもっと打ってくれれば相当の勝ち星を挙げたと思う。」とのことです。


 小田野柏が戦場から復帰した直後の昭和17年6月27日、お伝えしたとおり石原繁三が阪急を3安打完封します。小田野が言う「後年プロ野球で見た石原投手は球も速く」とは、この試合のことでしょう。11年前の昭和6年7月の岩手県予選準決勝で対戦するはずだった石原を間近に見て、強烈な印象を受けたのではないでしょうか。


 石原繁三は昭和11年にセネタースに入団しますがすぐ応召、昭和15年にプロ野球に復帰します。小田野柏は昭和13年に阪急に入団しますがすぐ応召、昭和17年にプロ野球に復帰してきました。二人が対戦したのは1試合だけで、昭和17年11月13日に行われる大和(黒鷲から名称変更)vs阪急15回戦、石原が4回途中から登板して小田野は遊ゴロと四球、対戦成績1打数無安打1四球の記録が残されています。


 小田野柏は戦後ノンプロで活躍し、昭和22年都市対抗野球大会で史上初の‟天覧ホームラン”を放つこととなり、更にプロ野球にも復帰します。石原繁三は二度目の応召からも帰還しますが、帰国直前、病に倒れたと伝えられています。戦死扱いとはされておらず、「鎮魂の碑」にその名を見ることはできません。




 

0 件のコメント:

コメントを投稿