昭和21年8月31日、西宮球場で行われたタイガースvsパシフィック戦において、パ軍は四番小島利男、五番高須清がスタメン出場。
昭和初期の東京六大学野球全盛期に早稲田の大スターだった二人は今季でプロ野球を去ることになる。小島はシーズン終了までプレーを続け、昭和25年には一旦西日本パイレーツに復帰することになるが、高須はこの試合がプロでの最後の試合となる。
したがって、この試合が高須清の引退試合となった。プロには馴染めなかった高須を、パ軍藤本定義監督は三顧の礼をもって戦後復活初年度に迎え入れたが、最後まで礼をもって遇したのである。
小島はプロ野球を去ってからもビジネスマンとして実業界で成功することになるが、高須の消息は定かではない。元々プロに進む気の無かった高須をプロ野球界に引きずり込んだ高橋龍太郎が面倒を見たとは推察されるが・・・。
*昭和14年5月23日付け読売新聞は高須のイーグルス入りを大きく報じた。
戦後に高須清がパシフィックでプロ野球復帰したのは兄貴分の小島利男が藤本定義に斡旋したからです。
返信削除退団後の高須は共同印刷へ入り最終的には重役の座についています。
「朝日新聞DIJITAL」によると、「現在は共同印刷の要職にある高須清」という記事が1968年5月7日に掲載されたとのこと。
削除そもそも高須はプロには行くべきではなかったのでしょう。鶴岡も同様の運命を辿る可能性がありましたが巧く対処しました。
その朝日新聞の記事はおそらく「高校野球風土記」の連載と考えられます。愛媛県の章に同じ一文が掲載されています。
削除「後楽園スタヂアム50年史」にはその当時の近影と回想が載っています。
そもそもイーグルスの入団は会社の出向命令で、本人も大学卒業後は野球を続ける気が全くなかったようですが、ファンは「ワセダの高須」が強く記憶に残っていますから重圧を感じていたのかもしれません。
試合前のシートノック中、ヤジに腹を立ててスタンドへボールを投げつけた、という事件もありました。